家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

「自分の十字架を負って、私にしたがいなさい」

2018年11月11日
テキスト:マタイ伝16:21~16:28
讃美歌:9&399
 
                第4部 教会におけるイエスの活動(16:21~20:34)
 イエスは敵対者たちを避けてイスラエルから退き、教会の設立を暗示した。そして、教会を連想させる弟子達に対し働きかけていく。弟子教育と弟子物語がこの段落の中心である。イスラエルの中で成立し、イスラエル指導者達から戦いをうけているが、まだイスラエルから分離していなかった教会(弟子たち)について語られる。
              A.受難への途上における弟子の体験(16:21~17:27)
1.受難の道(16:21~16:28)
 前回、イエスはペテロに対して語っておられた。今度は、弟子全員に対し、ご自分がエルサレムでひどい苦しみを受け、捨てられ、殺され、そして三日目に復活されるべきことを示し始められた。それを聞いてペテロは(ほかの弟子もそうだったろうが)心痛し、イエスを引き寄せて「そんなことがあなたに起きるなど、とんでもないことです」といさめた。これは一人の人(イエス)を愛する者として当然な感情ではないだろうか。ところが、それに対するイエスの反応は極端に厳しかった。荒野の誘惑を連想させる「サタンよ引き下がれ!」と叱責され、ペテロに「あなたは神のことを考えず、人間のことを考えている」と言われた。イエスは人間的な願いではなく、神の御意思に従って苦しみを受けるご決心なのである。それを妨げようとする人間的な感情を、サタンの誘惑として退けられた。
 そして弟子たちに①「誰でも私に従おうとするなら、自分を否定し、自分の十字架を背負って、わたしに従うべきである」と言われ、②「なぜなら、自分の命を救おうと思うものはそれを失うが、自分の命を私のために失うものはそれを見出すであろう」と言われた。
 ①「自分を否定し、自分の十字架を背負って、わたしに従う」とは、なんであろうか。禁欲的になるとか、苦行をするとかではない。そうしたことの中にも、自己追求があり得る。自己否定とは「ただキリストだけを知って、もはや自分を知らないということである」(ボンフェファー、「主に従う」)。
 つまり自己追求(幸せになるとか、精神的安定を得たり、敬虔な人間になるなど)のためでなく、ただイエスの後について行く(服従する)ためにだけということである。イエスは神の御意思に服従し、苦しみを受け、人に捨てられ、殺された。そのことによって人間の罪を贖い、人間に新しい命を打ち開かれた。つまり、神はイエスの十字架死によって古い肉の人間を殺し、イエスの復活によって、神と人を愛する新しい人間を創造されたのである。
 イエスの受難にはこのような意味がある。だが、キリスト者が負うのは「自分自身の十字架」のみである。とりあえずは、自分自身に苦しみ、他人に苦しめられることを受け入れることである。イエスが受け入れてくださったのなら、自分も他人も受け入れようではないか。イエスは「誰でも私に従おうと思うなら」とあくまでも自由意思で、その人間の自由な決断のうえで「自分の十字架を負って、私の後に従ってきなさい」と言われた。苦難のイエスに従うには、人それぞれの苦しみを負うことが条件である。ということは、各人の無意味な苦しみが、イエスに従うための意味ある苦しみに変化するということである。イエスのために自分の苦難を受け入れるとき、その苦難はイエスの苦難の中に受け入れられ、イエスがすでに担ってくださったことを知る。「私の軛は負いやすく、私の荷は軽い」。
 自分のための人生は虚しい。だが、私達以上に私達を愛してくださったイエス服従するためなら意味がある。卑賎な自分の、このささやかな人生が「自分の十字架」であるなら、それを積極的に負うて、イエスの後に従って行きたいのである。
 人間には、力に応じてそれぞれの十字架が与えられる。病や障害や様々な人生の蹉跌もあれば、より偉大な労苦や殉教の道もある。だが、「主に従うために」負う十字架はすべて同じ十字架であり、それを負う者をキリストの死と復活に導いていく。
 したがって、
②「自分の命を私のために失うものはそれを見出す」とは、イエスのために自分の十字架を負うい、自己追求する「古い肉の人間」に死んで、自分を忘れ神と兄弟姉妹を愛する「新しい霊の人間」として生き始めるということであろう。それは、必ずしも死後のことではない。十字架を進んで受けるイエスへの愛と希望において、すでにこの肉の体で、霊的な命を生き始めることが許されている。
 最後に27節、主の再臨に際して、人はそれぞれその行いに応じて報いを受ける。「主に従うために」古い肉の人間に死んで、自分の十字架を負ったかどうかが問われる。苦難のイエスを愛し、古い肉の人間としての命を失った者は、永遠の新しい命を受け、自己追求してイエスの苦難と十字架を恥じた者は、滅びる。

 だから、私達のために苦難と恥と死を忍び、新しい命を打ち開いてくださったイエスを愛し、自分を忘れ「自分の十字架」を進んで背負いなさいと、キリスト者を励まし慰めているのである。「十字架を負って、我に従え」との言葉は、厳しい命令ではなく、すべて悩む者・苦しむ者を慰め、立ち上がらせる主の愛の言葉でなのである。