家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

教会の土台の岩、ピリポ・カイザリアの信仰告白

2018年10月28日 
テキスト:マタイ伝16:13~16:20
讃美歌:505&216
 
            第3部 イエスが、イスラエルから退かれたこと(12:1~16:20)
            C.イエスイスラエルからの退却と教会の生成(13:53~16:20)
 前回まで、イスラエルにおけるイエスの活動が次第にイスラエルの宗教的指導層から遊離し、イエスご自身も、もはやパリサイ人やサドカイ人らと正面から論争しようとはせず、民衆への癒しを継続されつつ、だがイスラエル一般層とは区別して弟子集団を扱われるようになったことが語られた。弟子集団は、まだイスラエルから分離してはいない。だが彼らの中から、イエスご自身の民(新しいイスラエル=教会)が生れることが暗示された。今回は、いよいよ「私の教会を建てよう」との予告である。
3.3 2回目の神の子告白とペテロへの約束
 イエス一行は、パリサイ人らが「天からの徴」を要求したマガダン地方を去って、フィリポ・カイザリア地方に行った。そこでイエスは、弟子たちにご自分に対する人々の評価を問われた。彼らは、ある者は(ヘロデ・アンティパスのように)洗礼者ヨハネの生まれ変わりだと思い、ある者はエリヤ(メシアの先駆け)か、あるいはエレミアのような預言者の一人だと言っています、と答えた。そこで、イエスは「では、あなた方(弟子たち)は何者と考えているのか」と問われた。シモン・ペテロが答えた。「あなたこそ、生ける神の子、キリストです」。
 「生ける神」とは、(死せる)偶像とは異なり、世界と歴史において活動し給う真の神=イスラエルの神を称するユダヤ教用語である。つまり、イエスにおいて、真の生ける神がこの地上で活動しておられるとペテロ及び弟子たちは信じていた。第一回目の神の子告白は湖上歩行時の神的威力に畏怖してなされたものだが、今回は、旅の途中という日常の中での信仰告白である。弟子たちは、もはやイエス預言者の一人などとは考えてはいない。生ける神が地上に具現しイエスとして働いておられると信じていたのである。
 シモンのこの答えに対し、①「ヨハネの子シモンよ、あなたは幸いである。このこと(イエスが神の子であること)を示したのは、骨肉(人間としての能力)ではなく、天にいますわたしの父なる神である」といわれ、
 ②「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロ(岩の普通名詞)である。そしてわたしは、この岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれにうちかつことはない。
 ③わたしは、あなたに天国のカギを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でもとかれるであろう」と、厳かに告げられた。

①について。
 ペテロの告白は弟子一同を代表していわばスポークスマンのようになされたものと言える。他の弟子も同じことを言いたかっただろう。だが、ペテロは誰よりも一直線に、最も単純にイエスに頼り切っていた。だから、何らの躊躇も検討も経ることなく、即答したのである。イエスは、この単純さに注目された。イエスに対し幼児のように単純に信じ切ることにおいて、ペテロは弟子一同だけでなく全キリスト者も代表したのである。ペテロをそのような者とならしめたのは、彼の能力や個性(骨肉)ではなく、ひとえに神の恵みによる。だから、イエスはまず神を賛美された。
 ②について、
  そして、ペテロが原型とされた、子供のようにイエスを信じ切る信仰、この上にイエスはご自分の民(新しい契約のイスラエル)、教会を建てようといわれた。人間を捉えて放さない死の力(黄泉の門)もこの信仰に打ち勝つことはできない。信仰は死に打ち勝つのである。「世に打ち勝つ勝利、それは私たちの信仰です。誰が世に打ち勝つか。イエスが神の子と信じる者でありませんか」(Ⅰヨハネ5:4~5)。
 一方、この箇所はペテロの権威を承継すると主張する教皇権がらみで、カトリックでは深刻な問題となる箇所である。確かに、ペテロという特定の岩の上に、教会を建てると言われたのであり、「イエスを神の子と信じる」信仰一般の上にではない。だがそれは、ただ一回限りのペテロの人生において体験した、イエス体験の上にと解釈したい。二度と繰り返しえない、地上のイエスの生涯と御復活を、ペテロは誰よりも近く自分の身において体験した。彼は地上のイエスの目撃証人なのである。生ける神の、最後決定的な人間と歴史への介入の出来事、それがイエスの出来事である。この出来事がなければ、私たちは神とは縁のない過ぎ行く存在にすぎない。信仰は、この出来事に基づいて生まれる。その出来事の目撃証人として、ペテロは教会の土台の岩なのである。教会は、使徒的証言(聖書)の上に建て続けられる。そしてこの土台は唯一であって、人間から人間へと承継されるものではない。
③について、
 「あなた」ことペテロ=イエスを信じる者に、イエスは「天国のカギ」を授けられた。天国のカギとは、それを聞いて信じる者に天国の門を打ち開く「宣教」のことである。天国の門は、福音を聞いてそれを受け入れる者に開かれ、福音を拒絶し受け入れない者には閉じられる。福音を聞かされないで、だれが信じることができるだろうか。「ああ福音を告げる者の足は、なんと麗しいことであろう」と歌われるとおりである。たとえ今信じられなくても、いつか信じる可能性がある。福音宣教という「天国のカギ」を授けられた信仰者は(教職者だけでなく)全員、この福音宣教のために「時を得るも、得ざるも常に」励むべきである。パウロは、同胞ユダヤ人が救われるためであれば、自分がキリストから捨てられることさえ厭わないといった。このように、神がご自分を捨てて私たちを求めてくださったからには、自分を捨てて他者のために福音を宣べ伝える使命が与えられたのである。
 私たちに、そのような願いを起こしてくださる神に祈り求めたいと思う。