家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

5000人への供食

2018年9月9日 トリニティ教会礼拝
テキスト:マタイ伝13:53~14:21
讃美歌:7&534
 
            第3部 イエスが、イスラエルから退かれたこと(12:1~16:20)
          C.イエスイスラエルからの退却と教会の生成(13:53~16:20)
 前回の譬えによる演説では、譬えを語られる民衆一般とイエスにその意味を解き明かされる弟子たちとの乖離が次第に明らかになってきた。イエスは依然として民衆に直接語りかけられる。だが、歴史的にもイスラエルの大多数は「預言者を殺し、その墓を建てる」と表現されたように神に逆らう者たちであった。エリヤは、神を信じる者がイスラエルの中にただ自分一人と思った。(しかし神は知られざる7000人を残したと彼に告げられた)。民衆は、ついにはイエスを十字架につけよ!と叫ぶに至ることを、福音書読者は知っている。イエスを信じる者も、イスラエルの中に神が残されるごく少数の者(弟子・キリスト者)に限られることが少しずつ明らかになっていく。
1.ヨハネの殺害とイエスの最初の退却
1.1 ナザレ人の躓き(13:53~58)
 イエスは譬えを語り終えられるとそこを去り、故郷ナザレに戻られた。そこのシナゴーグで(ユダヤ人達に)教えられた。ナザレの人々は、その説教(知恵)と力ある業(癒し)に驚嘆した。だが、それが信仰には結びつかず、かえって手仕事職人ヨセフの息子であり、母はマリア、弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモンとユダ、それに妹たちもナザレで嫁いだり婚約していたりして、結局は自分たちの同類だという意識から、イエスを神の人として信仰することができず、躓いてしまった。イエスは彼らの不信仰を、ことわざ「預言者故郷で敬われず」と冷静に評価された。また、信仰ないこの所では力ある業は示されなかった。
1.2 バプテスマのヨハネの死(14:1~12)
 ヘロデ・アンティパスは、4分割されたヘロデ大王の領地の1つの治める領主であった。イエスの活動を聴き、自分が殺害した洗礼者ヨハネの再来ではないかと恐れた。彼は、自分の弟フィリポと離婚したヘロデアと結婚しており(律法によれば、まだ生存している兄弟の妻であった者と結婚するのは近親相姦にあたる)、それを批判したヨハネを拘束投獄した。だが民衆を恐れて殺害を控えていたが、ヘロデアの陰謀で、宴席での踊りの褒美としてヨハネ彼の生首を所望され、与えてしまったのである。ヨハネの弟子たちは、彼の遺骸を引き取り葬って、師が神の小羊と呼んだイエスのもとに行き、弟子集団に加わった。
1.3 5000人への供食(14:13~21)
 ヨハネはメシアの先駆けであり、その死はイエスの死の先駆け・予告の意味がある。イエスは彼の死の報告を受けると、舟に乗って一人で人気のないところに行かれた(祈られた?)。戻って舟から上がられると、陸伝いに彼を追ってきた大勢の民衆に出会われた。イエスは彼らを憐れみ、癒しを行われた。夕暮れになり、弟子たちは群衆を解散させ食料を買うために町に行かせべきだとイエスに告げた。だが、イエスはその場に群衆を座らせ、手持ちの5個のパンと2匹の魚をとり、讃美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に分け与え、全部の者(女子供抜きで5000人)が満足し、パンの残りが12のかごにいっぱいになった。
 この物語は何を語っているのだろうか。単に食料が奇跡的に増大したという話ではない。イエスは、荒野の誘惑において石をパンに変える奇跡を拒否されたお方である。カナの婚礼で水が葡萄酒に変えられたことを知るのは「水を汲んだ」僕たちだけであったように、この奇跡を知るのはただ、群衆にパンと魚を配布した弟子たちだけなのである。この情景をブリューゲル風に思い描けば、前景には奇跡に気付かず荒野にしゃがんで食事をする群衆がいて、遠景に手を上げて祈るイエスとそれを取り囲む弟子たちが小さく描かれるといったふうであろうか。つまりこの奇跡は、労苦し用いられた弟子たちだけが知る神秘の出来事なのである。
 印象的なのは、イエスが「パンをとり讃美してそれを裂く」お姿である。エマオの弟子たちはその姿を見て復活のイエスと知った。また弟子たちやザアカイら罪人・取税人と食を共にされたイエスの恵みと慈しみに溢れるお姿の記憶が、ここにこめられている。そして、教会にとっては現在も「命のパン」としてご自身を分かち与える、聖餐式に臨在される主イエスのお姿である。
 ザアカイらを感謝と喜びに溢れさせ、エマオの弟子たちの失意を回復させ心を燃やし信仰の確信に立ち上がらせた主イエスは、現在のわたしたちをもご自身の血と肉をもって養い、ついには天国の喜びの宴へ招いてくださるお方であり、その群れに伴い今も養って下さる善き羊飼いなのである。「パンをとり讃美してそれを裂く」お姿はそれを象徴している。
 また、その業に弟子たち(使徒キリスト者)を用い給う。実際、使徒パウロは自分が「貧しいようであるが、多くの人を富ませ…」と語っている。主の御力によってである。
 合理的な説明がつく事柄であっても、信仰者にとっては主の不思議な御業・顧みとしか受け取れない事実がある。卑近な例であるが、エリザベス・サンダースホームの沢田さんは、孤児たちにランチを供したあと、その日の夕食に出す食料が何もなく、事務所で切に祈っていると(スタッフたちは、祈って何になると思っていたことだろう)、電話が鳴り思いがけない食料の提供があった、等の経験を何度もしたという。ほか、主の業に従事する者たちは自分の貧しい奉仕を主が如何に大きな恵みをもって用いてくださったかを心底知っている。
 5000人の供食の奇跡は、主の業に労苦し御力を体験した弟子たち・信仰者の真実の物語なのである。この奇跡を読むとき、主が今も私たちを導き養い給うことを信じ感謝する者でありたい。