家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

畑に落ちた種

2018年7月29日

テキスト:マタイ伝13:1~23

讃美歌:234A&388
 
            第3部 イエスが、イスラエルから退かれたこと(12:1~16:20)
                          B.譬えによる演説(13:1~53)
 前回まで、イエスのメシアとしての権威ある教えや業が、イスラエルのそれまでの敬虔や律法理解に衝撃を与え、ついには指導者達が殺害を決意するまでに至ったことが述べられた。だが、そのようなイスラエルの中からも、イエスに召され彼に従う者となった弟子たちが生じた。イエスは、彼らをご自分の家族・身内と呼ばれた。
 今回から、物語の筋から少し独立した譬えによる演説が取り上げられる。譬えは、一種の謎または暗号のようなものである。イエスは公に語り活動された。しかし、それを受け入れて従う者にのみ天国の秘密が明らかなり、見聞きしてもそれを信仰を持って受け入れない者達にとっては謎であり躓きや裁きとなる。
1.導入(13:1~3)
 イエスは家から出て、海辺(ガリラヤ湖畔)に座られた。すると、大勢の民衆が集まってきた。そこで小舟に乗り込まれて、湖畔に立つ群衆に語られた。語られてはいないが弟子たちも一緒に舟に乗り込んだのであろう。この湖畔で、彼らは召されて弟子となった。そしてイエスが嵐を鎮めるという奇跡を体験をしたのも、同じくイエスと共に舟に乗ったこの湖であった。
2.民衆への演説(13:3~3523)
2.1 様々な土壌(畑)における種(13:3~23)
 イエスは民衆に有名な種蒔きの譬えを語られた。その意味を解説されることはなく、「耳のある者はきく」つまり民衆の解釈に任せられたのである。そこで、弟子たちが近寄って、なぜ譬えで語らえるのかお尋ねした。彼ら自身、その意味がよくわからなかったのである。 イエスは、彼ら(弟子たち)は天国の秘密を悟ることが許されているが、民衆はそうではないからとお答えになった。ここには、マタイの教会の経験が反映している。同じ福音を聞いても、信じる者がいる一方、それを拒否しますます不信仰に陥る大多数のイスラエルがいた。洗礼者ヨハネが問うたように、「盲人は見え、足萎えは歩き、死人は生き返り」というイエスの御業を見聞きしながら、それを拒否し自分の考える「敬虔」に固執して、目を閉ざし耳をふさぐイスラエルの姿は、まさしくイザヤが預言したとおりであった。悔い改めない彼らは、神に癒されることはない。財産を持っている人はいよいよ富み、持たざる人はますます貧しくなるという常識になぞらえ、信仰者はいよいよ信仰を与えられ、信仰の決断をしない者は元来約束された神の契約まで失う結果となる、イスラエルの姿を予告された。
 だが、弟子たち(イエスに従う者)は幸いである。目で見、耳で聞き、イエスに教えられ、神の国の秘密を明かされ理解へと導かれるからである。このようなこと(メシアの御業を見聞きし、解き明かされること)は、旧約の義人たちが切に憧れ求めたことであった。
 だが、このように溢れんばかりの祝福と愛情をイエスから注がれた弟子たち自身も、次のイエスの説明を聞くまで、譬えはやはり謎であった。自分で理解できないことに関しては彼らも民衆と同じである。イエスに召され彼に教えられ導かれることだけが、弟子たちを民衆から区別する。自分の意志や決断ではなく、何故かはわからないイエスの召しと選びによって、人はキリスト者とされ、イエスの弟子となるのである。
 そして頭で理解するだけではなく、実践すること・実を結ぶことが求められる。道ばたに蒔かれた種のように、御言葉を聞いてもそれに関わろうとしない者に御言葉はなんの益ももたらさない。石地に蒔かれた種とは、信仰の利益を聞いて喜んで受け入れるが、困難や迫害にあうと投げ出してまい、実を結ばない者である。茨に蒔かれたとは、生活の思い煩いや富の誘惑に負け、御言葉からそれてしまう者である。だが、聞いて理解し大切にそれを守り行う心に蒔かれた御言葉は、良い土地に蒔かれた種のように、それぞれ百倍・六十倍・三十倍の稔りを結ぶに至る。
 この譬えは他者を批判するためでなく、自分自身のこととして聞くべきである。私たち一人ひとりが御言葉(イエスの戒め)を大切に心に抱き、守り行い「平安なる義の実」を結ぶ畑でありたい。コベル宣教師は、キリスト者が戦争に協力してはならないという信念によって職場や生活の安定を失い、フィリピンで日本兵に殺害されるに至った。だが、その信念は憲法9条という実を結び、今も平和を愛する者を勇気づけている。彼の心に落ちた御言葉の種は、実を結んだのである。私たちの心に落ちた神の国の種を大切に心に抱き、イエスに教えられイエスに導かれつつ、神の国の完成を待ちつつ進むことができるよう祈りたいと思う。