家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

ヨナの徴と悪霊の帰還、イエスの真の家族

2018年7月15日

テキスト:マタイ伝12:38~50

讃美歌: 272&505
 
            第3部 イエスが、イスラエルから退かれたこと(12:1~16:20)
                      A.パリサイ人達との衝突(12:1~50)
 前回は、イエスの癒し奇跡をベルゼブルによるとしたパリサイ人達への反論であった。そして、イエスの癒し奇跡に神の国の到来を見るには、信仰の目が開かれねばならないことが語られた。外見的な特徴で識別するのではなく、神の恵み=愛の実を結ぶか否かによって見分ける力はどこから来るのであろうか。それはやはり、神の自由な憐れみによって目が開かれ、イエスの御業(癒し、盲人の目を開け、罪人との会食など)に神の国の到来を啓示されねばならない。徴も信仰も、神の自由な賜物なのである。今回もその続きである。
2.パリサイ人達との最初の決着(12:22~50)
b.ヨナの徴と悪霊の帰還(12:38~45)
 パリサイ人にかわって、今度は律法学者がイエスに徴を求めた。徴とは奇跡に限らない、預言者の行動(エレミヤが畑を買ったり等のこと)も含まれる。だが、並行箇所の16:1には「天からの徴」とあるから、石をパンに変えるとか高所から飛び降りて無事とか、栄光の姿に変貌するといった外面的証拠を要求したのであろう。(オウムの麻原は空中浮揚写真を見せた)。「神を試みる」(申命記6:16)このような不信仰、神の御子の御業をみてなおかつ外面的証拠を求める彼らを、イエスは「よこしまで背信的な今の世代」、つまり残りの者以外は神に叛くイスラエルと同一視して呼び、ヨナの徴以外は与えられないと応えられた。ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいて(生きていたが死んだような状態)しかも、吐き出され、生還した。そのように、ご自分も死んで(大地に横たわり)三日目に復活されることを予告されたのである。(ユダヤ当局者はこれを記憶していて、後にイエスの墓に番人を要請した)。
 復活は、神の大いなる御業であるが、信仰以外には隠された徴である。ヨナの生還も目撃者はおらず、本人だけが知る事柄であった。だが、当時のニネベの人々(異邦人)は、ヨナの奇跡的生還に驚かされてではなく、ヨナの説教を聞いて悔い改めた。彼らは最後の審判の時に、(イエスの説教等を聞いて悔い改めない)今の世代の人々を審くであろう。また、南の国の女王(シバの女王=異邦人)はソロモンの知恵を聞くためにわざわざ地の果てからやってきた。彼女は、最後の審判の時に、ソロモンよりもヨナよりも大いなる者(イエス)に聞こうとしない今の世代を審くであろう、とイエスは云われた。
 それから、病や悪霊憑きはぶり返すといっそうひどくなるという当時の常識を例にとって次のような譬えを語られた。
 バール崇拝等の偶像礼拝から浄められた魂(イスラエルを意味している)も、そこに真の神への信仰が住まないならば、いったん追い出された悪霊(砂漠をさまよっていた?)が戻ってきて自分よりもっと悪質な悪霊(教条的律法主義や形式的神礼拝、その他)を連れてきて空き家の魂を占拠し、以前の偶像礼拝よりもっとひどい不信仰の状態になる。今の世代=イスラエルもそのようになるであろう、と云われた。
 以上の話は、イエスの復活を受け入れず不信仰が確定したイスラエルユダヤ人批判である。契約の民イスラエルは捨てられ、異邦人とイスラエルの残りの者とからなる教会が誕生することを予告している。ここから、ユダヤ人が捨てられたことを固定化し、蔑視する思想が発生した。
 しかし、復活を受け入れ信仰を与えられることは、人間自身の業ではなく神の自由な憐れみである。それを忘れ、信仰を自分の業とするならば、そのようなキリスト教もかつての「今の世代」と同じ状態に陥るのである。彼らは、文字(律法)に熱心であった。だが、神は愛において活動される霊であり、イエスの活動と言葉によってご自分を示された。イエスの癒しや奇跡、罪人との会食、十字架での死と復活、そして聖霊によって世の終わりまで教会と共にいまし、人間を追い求め給うお方、つまりインマヌエル=「神、我らと共にいます」であることをお示しになった。イエスをしっかりと見上げねばならない。聖書をとおして、証人たちの証しをとおして、現在も働き給うイエスに聞くのではなく、人間の思想や例え聖書であっても人間の言葉・文字にこだわるならば、かつての「今の世代」=意味もなく律法にこだわったと同じ不信仰に陥ることを、よくよく警戒すべきである。
c.イエスの真の家族(12:46~50)
 こう話しておられると、ご家族(母マリアや兄弟たち)がきているとイエスに告げた者があった。そこで、イエスは弟子たちを指して云われた。「私の家族とは誰か。ここに私の家族がいる。父の御旨を行う者は誰でも、私の母また兄弟なのである」。
 主イエスご自身が、彼に従う者たち(弟子・キリスト者)をご自分の家族・兄弟姉妹であると云われた。肉親を愛さないのではない。主にあって、エゴのまつわる人間的な愛から浄められ、自由な人間同士として愛することができるのである。人間は、主イエス・キリストにあって互いに愛し合う平等な兄弟姉妹とされたことを、心から感謝したいと思う。