家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

ヤハウェを思い起こせ

2018年4月1日、相澤墓前にて

ヤハウェを思い起こせ

テキスト:申命記8:17~18

                          

 私たちの家庭礼拝は、1996年4月から開始した。それまで所属していた教会から出ざるを得なくなり、しかたなく自分たちで礼拝をすることにしたが始まりである。最初は、他の人の参加も漠然と期待した。だが、結果として家族だけの礼拝となった。場所も自宅で、相澤が亡くなるまで21年間継続して礼拝を行ってきた。2013年7月頃から相澤の体調が悪くなり、一週おきに説教を交代するようになった。相澤は体調だけでなく、認知症も始まっていたのである。そして2015年頃からは相澤が説教を担当できないまま続けてきた。
 キリスト者は、人間は神に相対するものとして創造されたと信じる。神に愛され神を愛することが人間の本来の生であるとするのである。アウグスチヌスは「神よ、あなたに会うまでは私の魂は安きを得なかった」(告白録)とのべている。だから、礼拝(神を崇めること)することこそ、キリスト者の本来の生のありかたなのである。
 人間的な問題をきっかけとして開始した礼拝活動であるけれど、神は「驚くべき恵み」をこの小教会に示して下さった。相澤は、他者に説くためだけでなく自分の魂において、信仰を検証しつつ説教を作ることができ、私たちは聖書を解き明かされ、祈りと讃美を共にすることができた。礼拝をとおし、神にあって神と共に生きることを教えられた。
 人間は単独で自己完結して生きる者ではない。自分で作り上げた目標(仕事の成功、愛情の成就等)の達成ではなくて、神を知り神と共に生きることが人生の充実なのである。例え、老い衰え、挫折を味わったとしても、あるいは幸福な生活を過ごすことができたとしても、どちらであれ、神に信頼し神を喜ぶ者として生涯を全うすることができるのである。自分の存在の恵み深い土台である「神を思い起こす」こと、すなわち礼拝である。
 2003年の相澤の説教「ヤハウェを思い出せ」を読み返した。申命記のテキストは、人生の営みがうまくいっていると、それは自分の力だと思ってしまう人間の高慢を戒めている。その力を与えて下さったのは神であることを、思い起こさねばならない。無教会の関根政雄氏が、礼拝をなしうることも神の恵みであると注解しておられることから、相澤は、この家庭礼拝も、人間的なきっかけから開始したことながら6年も継続できたことに感謝し、「神から出た」神の恵みによってであると信じた。
 その後もついに21年間、礼拝活動を続けられた。相澤の死によって終わるかと見えたけれど、今もこうして礼拝をなしえている。使徒行伝で律法学者ガマリエルが演説したように、「神から出た」ものであるなら、私たちの自信のなさによって終わらせることはよくないであろう。「ヤハウェを思い起こし」その導きに従って、これからも礼拝を継続できるよう祈り求めたいと思う。