家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

長の娘の蘇生、長血の女の癒し

2018年3月4日

テキスト:マタイ伝9:18~26

賛美歌:273&304
 
    第2部 イスラエルにおける、言葉と行為によるイエスの活動(4:23~11:30)
              B イスラエルにおけるイエスの奇跡(8:1~9:35章)
 前回は、①イエスがカペナウムにおいて取税人マタイを弟子として召命され、その祝宴に取税人・罪人らと同席して会食して、罪人を義へと招くメシアの憐れみを行われたこと、②弟子たちやご自身が断食しないことについての質問に対し、メシア到来の喜びの時に断食はふさわしくないと答えられ、「花婿が奪い去られる時」には新たな断食の時が来ると謎の予告されたこと、の2件を学んだ。だがこれらのことは、イエスをメシアと悟らないイスラエル人らに、疑問や抵抗を引き起こさせたのであった。
4.結びのイエスの奇跡(9:18~34)
 今まで、山上の説教後のイエスの活動について、病人を癒し・嵐を鎮められ・悪霊を追放し・中風患者を立ち上がらせ、罪人を義へと招かれ会食された、等が語られてきた。その結びとしての奇跡が語られる。
4.1 指導者(長)の娘と長血の女(9:18~26)
 イエスが宴会でまだ以上のように語っておられると、町のリーダー(著名人・有力者、おそらく高級官僚のような人物)が駆け込んできて、ひれ伏し、たった今自分の娘が息を引き取ったことと、それでもイエスが(病人を癒す)手を置いてくだされば生きるでしょうから、お願いです。おいでになって手を置いてくださいと願った。イエスは直ちに立ち上がり、彼の家に向かった。弟子ら大勢もついて行った。
 その途上である。イエス一行に従う群衆に紛れて、12年間も生理出血が続いている女がイエスの背後から彼に近づき、その衣の房(敬虔なユダヤ人は衣の四隅に房を付ける。民数15:38~40、申命2:12)に触った。生理中の女は汚れているとされ、過越祭参加を認められない等の社会的宗教的差別を受けていた。彼女の屈辱と精神的・肉体的苦痛はいかばかりだったろう。彼女は、(自分が遠ざけられているように)汚れが伝染するものだとしたら、イエスの清さが自分を浄める、彼自身ではなくその衣の房に触れるだけで、自分は浄められる、と一心に念じ、祈り、唱え、つぶやいていた。衣の房に触ると、体に触れられてもいないのにイエスはそれに気づき、振り向いて彼女をご覧になり、云われた。「娘よ、元気を出せ。あなたの信仰があなたを救った!」。その瞬間、彼女は癒された。
 救いをもたらしたこの女の信仰とはなんだったのだろう。衣の房に触れるという魔術的効果ではない。一途に自分の苦境からの助けをイエスに期待したことである。彼女はイエスに頼みもしない。イエスの意向などお構いなし、一方的に彼(の救いの力)に飛びつき縋り付いた。「窮鳥、懐に入れば、猟師もこれを撃たず」と云う。まして神は、イエスは、こんな一途な期待・願いを憐れみ給わないはずがあろうか。イエスは彼女をご覧になり、憐れみ給うた。メシア・イエスが彼女を憐れみ、「期待」や「願い」を上回る救いをお与えになった。永続する、内外面に渡る、全人的な救いの、具体的な現れとして、その時、彼女の肉体も癒されたのである。「悩みの日に我を呼べ。我、汝をたすけん。しかして汝、我を崇むべし」とある。出エジプトから現代に至るまでの信仰者達(教会)の体験もそれが真実であることを証ししている。私たちの信仰も、祈りも、かく大胆に、無制限に、自分の苦境を投げ出し神に頼るものであれ、とこの話は語っている。
 こうして町のリーダー宅に着くと、もう泣き女や弔いの笛吹などが雇われ、葬式の準備で大騒ぎであった。イエスは少女は死んでいない眠っているだけだと云われた。彼が死を支配する力をもつメシアと知らない民衆は、あざ笑った。だが、洗礼によって彼の死と復活に与る約束を得た教会は、自分たちの希望をここで思い起こすのである。
 イエスは、彼らを追い出されて、家の中にはいり、死体の冷たく堅くなった手を握られた。すると、少女は生きて起き上がった。(冒頭で、父親が信じたとおりになった)。この噂は、町を超えてその地方全体に広まった。
 この少女やラザロの甦りは、永遠の命への復活ではない。やがて老いて朽ちる命への復活である。だがこれらの話は、イエスが罪と死を克服し、勝利し給う「メシア」であることを、私たちにはっきりと指し示している。