家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

マタイ伝:取税人の召命、断食問答

日付:2018年2月11日

テキスト:マタイ9:9~17

讃美歌:84&277
 
    第2部 イスラエルにおける、言葉と行為によるイエスの活動(4:23~11:30)
              B イスラエルにおけるイエスの奇跡(8:1~9:35)
 前回は、①湖の対岸ガダラで、神の子イエスの聖性が、二人の人に取り憑いた悪霊を恐怖させ、豚の群れに乗り移って死滅させられ、それを聞いた町中の人間も恐怖し、一行が町に入らないことを懇願したこと。異邦人の救いの時は、まだ至っていなかった。
3.イスラエルの指導者たちとの衝突(9:2~17)
 そしてカペナウムにひきかえし、イエスの救いの直接的対象であるイスラエルが、彼らのメシア・イエスにどのように抵抗したかが語られ始める。
3.1 人の子は罪を赦す(9:2~8)
 ②まず中風患者を運び込んだ者たちの信仰をみて、イエスが患者の罪の赦しを宣言された。ある律法学者が、それをごまかしだと思った。それを見抜いたイエスは、人の子(=ご自分&その体である教会)が、地上で罪を赦す権威を与えられていることを立証するため、患者に立ち上がって帰れと命じ、患者は直ちに立ち上がり家に帰った。人々は人間達に(罪を赦す)このような大きな権威をお与えになった神を讃美した。十字架の力によって、人間達=教会もまた罪を赦す権威が与えられたからである。
 以上を、学んだ。今回もその続きである。
3.2 取税人に対するイエスの憐れみ(9:9~13)
 イエスは中風患者を癒された所からさらに進んで行かれ、マタイという取税人が徴税所に座っているのを見られた。取税人はローマから徴税を請け負って莫大な歩合で稼いだため非国民・罪人と見なされていた。ところがイエスは彼に「私に従ってきなさい」と命じられ(弟子として召命され)、彼は直ちに(職場放棄して)イエスに従った。
 共観福音書(マルコ&ルカ)に平行記事があるが、召命を受けた取税人の名前はレビであり、マタイ伝とは名前が違っている。おそらくマタイ伝記者は、ペテロ同様に直接イエスから召命を受けたからには十二使徒たるべく召されたと考え、十二使徒の一人マタイが「取税人と呼ばれた」ことが記憶されていたから、この人が召された記事としたのではないだろうか。
 家(誰の家でかは不明である)での夕食の際に、大勢の取税人やその他罪人とされている人々もイエスと同席した。パリサイ派の人々がイエスの弟子に「あなたの先生は、なんで罪人と食卓を共にするのか」と咎めた。イエスはそれを耳にして、「医者を要するのは健康な人ではなく病人である。聖書(ホセア)に『私(神)が求めるの憐れみであり、犠牲ではない』とあるのはどういう意味か学びなさい(他者への憐れみを、神は清浄さや犠牲奉献に優先して求めておられる)。私も、義人ではなく罪人を(救いへと)招く(=憐れみを行う)ためにきたのである」と云われた。
3.3 花婿(9:14~17)
 同じ頃、こんどはバプテスマのヨハネの弟子達がきて、イエスに質問した。パリサイ派ヨハネの弟子達(イスラエルの義人達)は断食を行うのに、イエスの弟子達は断食しないのはなぜか。イエスは花婿を迎えた婚礼の喜びの席に断食はふさわしくない(古いイスラエルが待ち望んだメシア到来の時に断食はふさわしくない)、花婿が奪い取られる時がくるが、その時には断食するだろうと云われた。そして、新しい葡萄酒を新しい革袋で熟成させるように、新しい待望の到来を予告された。
 これは、解釈が難解である。一応、肉による古いイスラエルのメシア待望が成就し、イエスが到来した時を「婚礼の喜びの時」と解釈し、〔イエスの十字架と死・復活と、全世界への福音宣教命令・イエス昇天という一連の出来事〕によって、イスラエルと異邦人から成る信仰による「新しいイスラエル」が誕生し、イエスが再臨される終末までの新しい待望の時を「(古いイスラエルから)花婿が奪い取られる時」と考える。古いイスラエルを代表するパリサイ派ヨハネの弟子集団も断食して神の支配=メシア到来を待望したように、新しいイスラエル(教会)も、患難に耐え断食して神の支配=イエス再臨を待望すると解釈したい。原始教会も定期的断食を行ったと聞いている。
 今日は、「お父さん」こと建司の誕生日である。彼が天に召されて約一年経つ。彼の説教原稿を整理しつつ思うことは、辛かったであろうアルバイト生活に耐えつつ、夢中になって聖書の勉強と信仰の思索をした、その生涯である。世間的にも家庭的にも不遇であった。既成の教会から迎えられることはなく、家族を愛していたが病気がちで世間的世渡りの知恵や経済力もなかった。だが、その特異な感性で苦しんだだけ深く、キリストの恵みを味わったのではないだろうか。彼はキリストによって、(公同の)教会の信仰を深めるために用いていただいた。キリスト者の死と復活の希望について、彼は深く明らかにしたと思う。だが私たちを含め人間からの評価はどうあれ、キリストが彼と共にいてくださってその働きを見守り導き、忠実な者としてくださった。そして「良き忠実な僕よ!あなたは僅かなものに忠実であった」と労り、受け入れてくださったと信じる。
 では、私たち自身はどうあるべきだろうか。彼を自分の者としてくださったキリストの真実を讃美し、私たちもまた自分の生涯によって建司が為したように神の真実を証しする者でありたい。特定の業をすることではない。信仰によって自分らしく生きる、これが建司が私たちに遺したメッセージではないだろうか。
 田村久氏もまた自分の生涯によって、自分らしく真実に生きる実例を示した。福岡での彼の法要を心を込めて済ませ、イースターには建司の墓参をして例年通り家族で復活祭の食事会をしたいと思う。