家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

コリント教会へのパウロの親心

2024年7月28日

テキスト:Ⅱコリント12:11~21

讃美歌:388&508

                                コリント人への第二の手紙
                          涙の書簡(Ⅱコリント10:1~13:13)
                                            
  前回、パウロは自分の神秘的体験を誇る論敵らに対抗して「第三の天」に引き上げられた体験を語ろうとしたが、かえって体験した事のあまりの素晴らしさにいわゆる「恐れと戦き」を覚えて語ることや誇る事を控えた。「人が口にするのを許されない、言い表しえない」認識とは、感覚や理性によって把握しきれない、つまり人間的には暗黒のままに受け入れるべき認識であり、「見えない事実を確認する」信仰の認識である。コリントの論敵らの、(優れた霊的体験を誇る)霊的傲慢さに対抗し、今やパウロは自分の人間的弱さを(それを覆い、キリストの力が発揮される場として)誇る。つまり「キリストにある一人の人」=パウロは、自分の霊性の高さでなく、キリストの救いの力を宣べ伝える務めを果たそうとする、キリストの僕であり使徒なのである。
 ここに至ってようやく、「愚か」な人間的誇りという仮面を外し、自己の宗教的権威誇示ではなく、福音の宣教者としてコリント教会に語っていることをあきらかにする。
2)愚かな誇りという仮面をつけて(11:1~12:13)
g.愚かな自慢の結び(12:11~13)
 「11わたしは愚か者になってしまいました。あなたがたが無理にそうさせたのです。わたしが、あなたがたから推薦してもらうべきだったのです。わたしは、たとえ取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかったからです。 12わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています。 13あなたがたが他の諸教会よりも劣っている点は何でしょう。わたしが負担をかけなかったことだけではないですか。この不当な点をどうか許してほしい。
 ここまでパウロは、論敵に対抗して選民イスラエルの血統を誇り、「キリストに仕える者」としての苦難を誇った。だが、「パラダイス体験」を語ろうとしてそのあまりの素晴らしさに語り得なかった。むしろ、論敵らにならってかりそめに誇ろうとした擬態(ふり)を止め、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」との主の言葉を伝えた。「弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあって」キリストの力が十分に発揮される事を喜ぶのである。「わたしは弱いときにこそ(キリストの力が発揮されるから)強い」とは、自分を捨て「キリストにある使徒・伝道者の言葉である。
 だから、ここまで自分を誇ろうとした事は自分が進んでしたことではなく、論敵らの自己主張に追従する(お前達)コリント教会に強いられたからだ、と叱責する。むしろ、論敵らのパウロ批判に対しコリント教会から推薦して貰うべきであった。コリント教会の人々が思い込んだように、パウロがたとえ「取るに足りない者」としても、大使徒風を吹かす論敵らに(神秘体験も宣教の実績も)少しもひけをとらないからである。コリントでの宣教活動で、「しるしや、不思議な業や、奇跡によって使徒であることを実証し、その結果、霊的に豊かなコリント教会を生み出した事実を挙げる。使徒行伝記事にはコリントでの奇跡は述べられていないが、エペソで大反響を呼び起こしたような奇跡や徴が、コリントでも生じなかった筈はない。
 だが、商業都市コリントには金銭に拘り、しつこく疑う人がいたようである。弱肉強食の古代で、精神性より具体的な金銭の力を信じる人は多かったであろう。まして商業都市である。「見える現実」だけを拠り所とする人々であれば、見返りも求めず、何らかのサービスの提供などあり得ないと疑ってかかる人がいた。そうした人に疑われないよう、パウロ献金に頼らず自活してまで宣教活動をしたのであった。ところが、それがかえって論敵らの攻撃の対象となった。
 つまり、パウロは資格のあるまともな伝道者ではないから、表だって献金を受けられない、という批判である。コリント教会は、他の使徒や大教会からの支援や推薦もなしに、独立伝道するしかない不適格者に建てられた、と論敵らは言う。するとコリントの人々は、使徒の権利を主張しようとしなかったのは、その為かと思い込んでしまった。
 だからパウロは13節で「あなたがたが他の諸教会よりも劣っている点」として「わたしが負担をかけなかったこと」を指摘する。コリントの人々に疑いを持たれまいとして無償で宣教した事が、かえって彼の福音を軽視させる結果を招いた。思いやりが、教会を甘やかし信仰的成長を阻害させることになった。これを、パウロは自分の落ち度として詫びる。(しかし、詫びられたコリント教会は恥じたであろう)。
 だが、パウロの目的は、自分が正当に評価されることではなく、教会を「建てる」事である。
(3)目前に迫ったコリント訪問予定(12:14~18)
 「14わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたに負担はかけません。わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。 15わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。 16わたしが負担をかけなかったとしても、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったということになっています。 17そちらに派遣した人々の中のだれによって、あなたがたをだましたでしょうか。 18テトスにそちらに行くように願い、あの兄弟を同伴させましたが、そのテトスがあなたがたをだましたでしょうか。わたしたちは同じ霊に導かれ、同じ模範に倣って歩んだのではなかったのですか。
 14節。パウロは現在、三度目の訪問を予定している。おそらく混乱を終結させる為に、不従順な者達を使徒の権威をもって処断し、追い出すためであろう。だが、その為の費用をコリント教会からは受けないと言う。献金を受けなかったことが悪い結果になったとしても、パウロの目的は金銭や好評をうけることではなく、コリント教会がキリストにあって堅く立つことである。親が子供のために自分を使いはたすように、パウロもコリント教会が成長するために身も心も使いはたす覚悟を示す。とはいえ、自分への疑いは晴らさねばならない。
 その疑いと言うのは、エルサレム献金流用の疑惑である。パウロに直接でなく、エルサレム献金名目で「だまし取った」と言われた。エルサレム献金については、彼が派遣したテトスら協力者が中心になって募金活動を勧めたようである。それを「悪賢くて、あなたがたからだまし取った」と論敵らが批判したのである。
 エルサレム会議で割礼無しにキリスト者と認められたテトスは、おそらく「異邦人もユダヤ人もない」福音に感激し、熱心にエルサレム教団支援を呼びかけたであろう。18節の、同伴させた「あの兄弟」は、他の異邦人教会からエルサレム献金を持参してきた人ではないだろうか。ユダヤ人でもラビでもなく、コリント教会の人々と同じ異邦人キリスト者テトスのエルサレム教団への兄弟愛は、さすがのコリントの人々も認めざるを得なかった。論敵らは人間的宗教性を強調したが、その信仰は個人的でありテトスのような信仰的「兄弟愛」を示すことはできなかったのである。
 そこで18節、コリント教会自身に問う。テトスらを信じたのであれば、テトスを派遣したパウロ一行も「同じ霊に導かれ、同じ模範に倣って」いると信じるべきではないか?
  食い荒らす蝗の大群に、1匹の正常な蝗を放つと、正常な蝗に触れた狂った蝗は落ち着きを取り戻し、群れは沈静化する、という。そのように、宗教的権威を振りかざさない同じ異邦人キリスト者テトスの態度が、コリント教会自身の信仰的反省を呼び起こした。指導者の問題ではなく、コリント教会自身の信仰態度が問題だと気づいたのであった。
(3)コリントへの処罰を心配し悲しむパウロの親心(12:19~21)
 「19あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。 20わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。 21再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。
  三度目の訪問は、コリント教会への最終処分となるであろう。何度も指導してきた「争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動など」が改められないのであれば、集会から追放という厳しい処置をとらざるを得ない。それを思うと、パウロは悲しみと不安でたまらなくなる。どうか態度を改め、信仰の従順に立ち返ってくれるよう願う。
  今まで論争的に語ってきたことは「自己弁護」ではなく、「すべてはあなたがたを造り上げるため」である、と言って、パウロは教会を生み出した「親」の心情を明らかにしている。
 まとまらないが、今日はここまで。