家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

冒頭の挨拶

2022年9月18日

テキスト:Ⅰコリント1:1~9

讃美歌:6&333

                                  コリント人への第一の手紙
 今日から、コリント第一の手紙を読んで行く。この手紙の執筆されたのは、コリント教会からの質問や相談に応じる為であるが、同時に集会内に生じた分派その他の不都合を聞き及び、福音にふさわしい指導を与える事が主な内容である。エペソもコリント同様に海上交通の要所であり、往来が盛んであり、パウロとコリント教会も頻繁に連絡をとっていた事が伺える。

                        (1)冒頭の挨拶(Ⅰコリント1:1~9)
a.発信者および受信者
 まず、当時の手紙の様式に従って発信者・受信者が明記される。パウロは、発信者として自分を「神の御心によって召されたイエス・キリスト使徒、受信者をコリントの「神の集会=エクレシア」とし、両者共に、神によって現在の存在(神の民=エクレシア)にあることを示す。
 しかし、両者のエクレシア内部の立場は異なる。使徒は、キリストに対しては奴隷であるが、「神の集会」に対しては、主の証人であり、また代理人全権大使である。従って、この手紙は私信ではなく、キリストの全権大使からの「公」の文書であり、受信者が従うべき権威が示される。
 なお、共同発信者として「兄弟ソステネ」の名を挙げている。彼はコリント教会によく知られていた人物であろうが、実質的発信者ではなく、パウロの手紙に同意し補強する役割を担っている。
 さらに、受信者は①「キリスト・イエスにあって聖とされ、召された聖徒達」と、彼らが聖化された存在であることを強調する。「召され」たとは、招集されたことである。ギデオンと共に聖戦を戦う戦士が志願ではなく選別されたように、神によって選び出され、生まれながらの存在から、神の民・現世における神の支配の前線基地部隊、という新しい存在に移されたのである。聖化は、単に倫理的道徳的に清められることではなく、この新しい存在へと「キリスト・イエスにあって」聖別(神の用途に取り分けられる事)されることである。召しを受けた者は、人間的にはどんなに破れた者であろうとも、キリストによって聖別された「聖徒」である。聖別(信仰を与えられること)は、聖霊の働きであり、聖霊が宿る以上、まだ肉にあって生きていても、「肉に従って」ではなく、「聖霊に従って」生きることによって、聖別にふさわしく変えられるのである。
 なお、受信者を「私達使徒パウロとコリント教会)の主イエス・キリストの名を、至る所で呼び求めている(私達以外の)全ての人々と共に」聖徒とされた、としていることが特徴的である。これはシナゴーグの礼拝様式の踏襲であり、シナゴーグが、全世界に散在する「(神)の名を呼ぶ」他のシナゴーグと連帯し神を礼拝をしたように、教会も「(キリスト)の名を呼び求める」他の教会と共に、一つのキリストの身体として聖徒とされたことを想起させる。
 このように、全エクレシアを一つにし、神に結びつけるのは、キリストにあってであるから「このキリストは私達パウロとコリント教会)の主であり、また彼ら(至る所で主の名を呼ぶ人々)の主である」と、付け加える。
 人間を創造され、御自分の子供とされる慈しみ深い「」である神、その神の支配をもたらす権威を授けられた「」キリスト、区別されかつ深く結びついた両者から、教会に「恵みと平安」がもたらされる事を祈る。「恵みと平安」は、預言者以来、メシア到来時の救いの賜物とされているから(イザヤ32:18「わが民は平和の家におり」ほか)、これは現在だけでなく、終末の完成迄をも祈ることである。ロマ書冒頭にも同じ祈りがある。
b.集会の豊かな賜物についての使徒の感謝
 当時の手紙は発信者・受信者の特定の後、まず感謝を述べて用件に入った。例えば「ご連絡ありがとうございました」などのようなものである。キリスト者相互間では、まず神に感謝が捧げられた。だが使徒は、単なる手紙書式ではなく心から、コリント教会に与えられた豊かな賜物について神に感謝する。それは人間の業績ではなく、キリストにあって与えられた恵みの賜物である。その結果、彼らは全てのこと、特に①「言葉(ロゴス)」と②「智慧グノーシス)」に豊かになり、聖別にふさわしくキリストへの証が確立された。
 ①「言葉(ロゴス)」とは、霊的問題についての論理的・理論的な言説能力である。アポロはこの豊かな能力をもって教会に奉仕したと伝えられている(行伝18:24~25)。
 ②「智慧グノーシス)」とは、霊的な認識判断力であり、理性や感性によっては把握できない霊的事柄を認識する力である。稲妻が暗闇を照らし出すように、理性や感性にとっては暗い霊的な事柄を一瞬にして見る力である。
 ここで特に①「言葉(ロゴス)」と②「智慧グノーシス)」を挙げた事により、パウロは、これから取り上げようとする熱狂主義との対決という主題を打ち出したのである。なぜなら、これら霊的能力は、程度の差はあれ、人間に生来備わっている能力だからであり、異教徒や哲学者もこれにより「陶酔」や「観想」に至るからである。回心前のアウグスティヌスも、こうした霊的能力によって、美のイデアを観想したという。また、禅宗の「見性」や神秘家の「観想」等もこれらの能力によるものであろう。
 ただ、コリントの人々はキリスト者であるから、これによって達する陶酔や認識(ビジョン)は、異教的なものではなく、キリスト教的なものだっただろう。たとえば、パウロは「第三の天にまで引き上げられる」という体験をした。(但し、自分の体験とは言わず、自分が知っている「或る人の体験」としている)。通常、そうした体験は瞬間的で、かつ個人的な限界を持ったものであるが、与えられた人にとっては、心に深く刻まれ生涯忘れ得ぬ体験である(パスカルは、それをメモって身につけていた)。体験者は、約束された「救い」を垣間見て、いよいよ切にその実現を待望するようになる。天路歴程にも、クリスチャンとホウプフルが「ベウラ」の地で、神の都の輝きを望見し、陶酔する描写がある。それも、こうした幻体験の一つであろう。聖霊が、(救いの実現を)担保する「保証」(Ⅱコリ1:22)と言われるとおり、救いの前味を体験させ、いよいよ主の到来を憧れ、確信して待ち望ませて下さるのである。
 しかしもし、そうした体験を過大評価し、それによって達する陶酔や観想(神認識)を、言わば「宗教的悟り」や最終的な「救いの境地」とするならば、それは人間による自力救済であり、キリストが全ての人の為に肉に死んで下さった十字架の意味をないがしろにするのである。そして、現在受けた陶酔や神認識を、救いの完成として誇り、将来の主の来臨を待望しない熱狂主義に陥る。
 だからパウロは、7節「こうして恵みの賜物にいささかも欠けることなく、私達の主イエス・キリストの現れるのを待ち望んでいる」と、神に感謝して、主の到来を待望すべきことを教えている。また、主が(善き羊飼いとして)、教会を堅く支え、終末時に責められるところのない者として下さることに信頼する。そもそも教会は、人間的な資格によってではなく、神の自由な救いの御意志によって召され、「イエス・キリストとの交わり(コイノーニア)」に入れられたのである。真実なる神が、救済への召しを完成して下さることを、パウロは信じ、かつ使徒としてその為に戦う。
 なお、「交わり(コイノーニア)」とは、独立した主体同士の「交わり」ではなく、夫と妻が結ばれて一体となるような(相互浸透的な)「交わり」であり、キリストに結ばれて一体となることである。その完成は終末時であるが、人に信仰を起こさせるの聖霊であり、キリストの霊である聖霊が宿り給う以上、まだ肉にあるキリスト者・教会も、すでに「イエス・キリストとのコイノーニア」に入れられ、主とのコイノーニア(交わり)が開始しているのである。
 以上、冒頭の挨拶を少し詳しく取り上げた。現在の私達は、近代的な理性偏重主義に影響され、霊的事象にうとい。だから、これから取り上げられるグノーシス的熱狂主義を、縁遠い過去のものと考えがちである。だが、理性(思想や科学)も霊性(霊的能力)も同じく人間的内面性(肉)であり、肉である人間性から福音を解釈しようとすれば、同じ信仰的過ちを犯すのである。
 自分達も、同じ信仰的危険の中にあることを自覚して、この手紙を学んでいきたい。