家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

世の光イエス

2021年1月24日

テキスト:ヨハネ伝8:12~30

讃美歌:326&194

                        A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)

3.ユダヤ人との戦いと世に対する勝利(5:1~12:50)
  前回は、仮庵祭で雨乞いの儀式が行われる大事な日に、イエスが叫んで言われた「誰でも渇くものは、私のところに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が言っているいるように、その人の腹から生きた水の川が流れ出るだろう」を取り上げた。これは、イエスが栄光(十字架と復活・昇天)を受けた後に、信仰者達に分け与えられる聖霊のことを言われたのである。聖霊はその人のうちで「永遠の生命に至る水が湧き出る」(ヨハネ4:14)泉となる、と約束された。それらを語られる様子の神的威厳に、イエス捕縛に遣わされた下役達までもが畏怖した。またニコデモは、聴聞なしにイエスを逮捕することに異議を唱えた。だが、祭司長等は下役達や彼をあざ笑うばかりであった。今回の箇所はその続きである。(7:53からの「姦淫の女」は後代の挿入である)。
(5)イエスをめぐるユダヤ人の混乱
e.世の光イエス(8:12~20)
 イエスは、再び群衆に「私が世の光である。私に従ってくる者は闇の中を歩むことなく、命の光をもつであろう(未来形)」と語られた。仮庵祭は、神殿に灯火をともし続ける光の祭典でもあった。前回は水乞いの祈りに応じられたが、今度はご自分を世を照らす光として示されたのである。
 この12節はヨハネ伝よりも古い教会伝承(イエスへの信仰告白)と考えられている。
 ここで使われている「私は○○である」は神顕現の言葉「エゴー・エイミ」であり、必ず救いの約束が伴う。これは、もとは神が燃える柴の中でモーセに顕現された時、ご自分の神名とされた言葉である。詩篇や第二イザヤでは「わたしは神である」や「わたしはそれである」と訳され、神が救いをもたらすために顕現される際の定式的表現である。救いの内容を示すの補語を伴うこともあるが、補語なしでも相手に救いをもたらすため顕現した神を表現している。
 ここではそこに補語「世の光」が補われ、救いの内容を表現している。闇とは死と滅びであり、闇の中に在る者は自分が何者か、どこから来てどこに行くのか、何故生きているのか何も分からない。要するに闇中模索し、結局は無の中に消えてゆくしかない。だが、イエスと出会う時、自分が神に愛されており、神との交わりに生きるために創られ、それにも関わらず生命の源である神に背いて自己追求しようとする者であることが分かる。同時に、イエスが、その背きを癒やし神に立ち帰らせるために人間となられた神であり、イエスこそが神への道であり、命への方向を示す光であり、何よりも自分を求めて下さる神の愛だ、ということが分かる。イエスは、照らし出す相手を命に向かわせる光である。ヨハネ伝序文にも「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(1:4)とある。これはイエスの受難と復活によって成就するが、この時点は受難以前なので未来形で語られている。
 この福音書成立当時、ヨハネ共同体はこの言葉を拒否するシナゴーグ側との激しい戦いの中にいた。この霊言が、律法厳守のみを神への道とするユダヤ人達の激しい反発の的となる。
 パリサイ派の者達が、イエスの言葉を「自己証言は虚偽」とする律法の裁判原則で反論した。同じことが5章31節でも取り上げられ、イエスは洗礼者ヨハネや父、聖書を証人として挙げられた。だがここでは、もはや他の証人を指名されない。イエスは「たとえわたしが自分自身について証をしているとしても、わたしの証は真実である。わたしは自分がどこから来たか、またどこへ行くのかを知っているからである。あなた達はわたしがどこから来たのか、またどこへ行くのかを知らない」と言われた。イエスは、ご自分が神から遣わされ再び神の元に帰る者である事を知っておられる。しかし、これは他の人間が証言できるような事柄ではない。彼は、神の御意志を世に「啓示」した。このような伝達は、絶対的な自己証言でしかあり得ない。この世の人間的知識からは、イエスが神から来て神に帰る方であることは知り得ないからである。
 イエスは「あなた達は肉に従って裁く(判断する)が、私は誰をも裁かない」と言われた。これは、ユダヤ人達は人間的基準(肉)で他者を判断する(裁く)が、イエスご自身はそのような基準で人を判断しないと言われたのである(「判断する」は「裁く」と同じ言葉なので、実例として「姦淫の女」のエピソードが挿入された。)イエスに従う者は、それまでの自分から解放され、新しい人間へと変えられるからである。しかしイエスを受け入れない者は、そのこと自体がその人を裁く。イエスを信じ受け入れるか否か、それがその人を裁く基準となる。
 そして続けて「もし私が裁くとすれば、私の裁きは真実である。なぜなら私は一人ではなく、私を遣わされた父と共にいるからである」と言われた。何度も繰り返し語られているように、イエスは常に父の御心を行い、父の言葉を語る。だからもしイエスが裁くとすれば、それは父の裁きとして決定的な神の審判である。お前達シナゴーグ側が金科玉条とする律法も、二人の証言が合えば、真実と認めているではないか。イエスの言葉の真実さは、イエス御自身だけでなく父がそれを証していると主張された。しかし、ユダヤ人達はイエスの「父」を神と認めず、「お前の(肉親の)父はどこにいるのか?」と嘲った。
 イエスは「お前達は私を知らず、また私の父をも知らない。もし私を知っていたなら、私の父をも知ったであろうに」と言われた。だが、これは堂々巡りである。イエスが神から来た方と知らないから、イエスの父が神であることを悟らない。イエスを神から来た方と信じてはじめて、イエスの父は神であると認識できる。父が引き寄せた者だけが、イエスに来て彼に従う。彼を受け入れず拒否する人間は、神が彼の父であり、彼は神から来た方と知ることはできない。
 イエスは、これらの言葉を神殿の賽銭箱の傍らで(堂々と公に)語られた。イエスが御自分を神と等しい者(エゴー・エイミー)として語っておられるのに、誰もイエスを(神冒涜者として)捕らえようとしなかった。マルコ14:62大祭司の審問で、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と問われ、イエスが「エゴー・エイミ(そうである)」と神顕現の言葉で答えられると、それだけで大祭司が衣を裂くほどの神冒瀆とされた。だが、ここではそのような「イエスの時」が、まだ到来していなかった。
f.去って行くイエス(8:21~29)
 イエスは続けて「私は去って行く。あなた達は私を捜すが、自分の罪の中に死ぬことになる。私の行くところに、あなた達は来ることができない」と言われた。「去って行く」とは受難と死の予告である。共観福音書は、イエスの受難を「渡される」と受け身形で表現したが、ヨハネ伝はイエスの能動的行動として捉えてこのように表現する。
 ユダヤ人達はこれを、イエスが自殺する気なのかと疑った。するとイエスは「あなた達は下のものに属しているが、私は上のものに属している。あなた達はこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなた達は自分の罪の中に死ぬことになると言ったのである。『わたしはある(エゴ・エイミー)』であることを信じないならば、あなた達は自分の罪の中に死ぬことになる」と言われた。
 イエスは、光と生命の天の領域から来た。だが他の人間は人間自身の世に属しているから、彼らの基準ではイエスの言葉が理解出来ない。イエスを「わたしはある(エゴー・エイミー)=地上に顕現した神」と信じない者は、自分の闇と死の領域に留まり、「自分の罪の中に(自分の悪の為に)死ぬ」(申命記24:16ほか、旧約における裁きの言葉)と言われた。人間的認識を超えた神からの「啓示」は人間的基準で判断することはできない。そのまま受け入る信仰の決断が必要なのである。さもないと、自分の罪の中に滅びると脅す。
 ユダヤ人達が「いったいあなたは何者か」と言うと、イエスは「それは初めから話している」と言われた。世に属する者に伝えるべき事は多くある。父(神)から聞いたままをイエスは世に伝えている。だが、ユダヤ人達はイエスが神について語っておられる事を悟らなかった。それは、ヨハネ共同体(教会)が、信じないでむしろ敵対する世界(特にシナゴーグ)に対し、福音を伝えている事と同じである。彼らがそれを信じなくとも、神が語っておられる事をそのまま伝えるほかない。ここでは、それを地上のイエスの言葉に置き換えているのである。
 「あなた達は人の子を上げたときはじめて、『わたしはある(エゴ・エイミー)』がわかるだろう。すなわち、わたしが自分からは何もせず、ただ父がわたしに教えられた通りに語っていることがわかるであろう。わたしを遣わされた方は、わたしと一緒にいて下さる。わたしを一人にはされない。わたしはいつもその方の御旨に適うことを行っているからである」とイエスは言われた。
 「上げる」とは、ユダヤ人達が十字架に「上げる」事だけでなく、神がそのイエスを復活させご自分の右に「上げる」事の両方を意味する。十字架と復活という出来事が起こって、はじめてイエスが神の啓示者であり、地上での神の顕現であること、すなわち「わたしはある(エゴ・エイミー)」であったことが明らかになる。地上のイエスは、父(神)が示す事柄をあらかじめ語っておられるのである。
 イエスの復活と昇天が起きるまで、救いが「上から」つまり神の側から人間に訪れる事を、いったい誰が予測しえただろう。啓示の民ユダヤ人達でさえ、従来の世がずっと続きやっと「終りの日」に各人の行いに応じて報いられると信じていた。つまり、救いは個々人がばらばらに各自で勝ち取るものと思っていた。だが、最初の人間アダムによって罪が全人類に及んだように、人間の義も、一人の人間(イエス)によって全人類にもたらされる。神の独り子が人間として生まれ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、神への従順を貫き通された。人間の義は、それによって回復された。(だからヨハネ伝は、イエスは死に至るまで神の救済意志に一致し、一人ではおられなかったとする)。イエスは「新しいアダム」として栄光の身体に復活し、天に昇り「神と人とが偕に住む」新しい世(アイオーン)を開かれた。これを信じる者は、終末を待たず、もはや暗闇の中ではなく、すでに到来した永遠の命の光に照らされ、そこに向かって歩む。それが露わになり、イエスの「骨の骨、肉の肉」として復活の身体を与えられる「終りの日」まで、待ち望みつつ、忍耐と希望をもって主と共に歩む。私達も、信仰の与えるそのような勇気と希望に励まされつつ人生の旅路を歩もう。