家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

弟子達の躓きと、シモン・ペテロの信仰告白

2020年12月13日

テキスト:ヨハネ伝6:60~71

讃美歌:96&107

                        A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)

3.ユダヤ人との戦いと世に対する勝利(5:1~12:50)
(4)生命のパン
   前回は、5千人の供食の奇跡を受けた群衆とイエスとの対話を聞いていた、カペナウムのユダヤ人達が、エスがご自分を「天から降ってきた(パン)」と称されたことに躓いたこと、次に私が与えることになるパンとは、世を生かすための私の肉である」、つまりイエスの受難預言に躓いたこと、最後に人の子の肉を食べ、血を飲まなければ、あなた達の内に生命はない」という過激な言葉に躓いたことを取り上げた。
 これらが語られたのはシナゴーグであり、当然イエスを取り巻いていた弟子達も聴いていた。今回は、弟子達の多くが感じた躓きを取り上げる。
④弟子達の躓きと分裂(6:60~71)
a.弟子達の躓き
 弟子達も、篤信のユダヤ教徒であったから、上記ユダヤ人達の躓のうち上記①はともかく、②は、「人肉を食う」という誤解はしなくとも、受難預言は余りにも衝撃であった。ペテロが「主よ、そんなことがあってはなりません!」とイエスを諫めた(そして叱咤された)ことがマタイ伝16:22に記載されている。復活信仰なしに十字架の贖罪を受け入れ信じる事はできないのである。
 そして③の「肉を噛みしめ、その血を飲む」という過激な表現は、弟子達にも耐え難い「酷い」言葉であった。さすがに、敵対的なユダヤ人達のように直接イエスに言い返すことなしなかったが、仲間同士で呟いてしまった。
 イエスはこれ(弟子達の躓き)に気づいて「…このことに躓くのか(61節)。それでは、人の子が元いた所に上るのを見るならば、……。(62節)」と言われた。62節の条件文(見るならば)の主文となる言葉(○○するであろう)はない。
 イエスが自称されていた「人の子」とは、旧約聖書において終末時審判者として天から降ってくる存在である。そのような存在として「天から降り」受肉されたイエスが、「元いた所」つまり天に上るのとは、復活・昇天して神の右に座すると言うことである。だが、それを示されれば、「信じるであろう」とは、イエスは確言されない(できない)。
 イエスの十字架を贖罪と見る事が出来るのは、復活信仰あってのことである。復活信仰あってはじめて、イエスが「天から降ってきた人の子」であり、その十字架死は全人類の贖罪であったことを信じる事ができる。そして「肉を噛みしめ、その血を飲む」とは、イエスによる救済を個別具体的に自分に関わる事柄とする事であると理解出来る。ところが、復活・昇天を示された者全員が必ず信じるとは限らないのである。かえって、信じる者はごく僅かなのである。
 イエスは「御霊こそが生命を与えるものであって、肉(サルクス)は何の役にも立たない。私があなた達に語ってきた言葉は霊であり、生命である」(63節)と言われた。神的霊が生命を与える主体であり、肉(人間的理性や自然的本性)は何の役にも立たない。イエスが語ってこられた言葉(生命のパンの教説など)は、人間的な言葉ではなく霊的な生命を与える言葉なのである。しかし、それを人間的体験や演繹的理性の範囲でしか聴こうとしないならば、ユダヤ人達だけでなく弟子達でさえ誤解し、躓いてしまう。
  64節「しかし、あなた達の中には信じない人達がいる」。イエスは、最初から誰が信じるものであり、誰が裏切る者であるかを知っておられたのである。そして65節「だから、父からその人に与えられるのでなければ、私のもとに来ることはできないと言っておいたのだ」と言われた。つまり、「(イエスのもとに来る」者とは、その事を「父から与えられた」人だけであると言う事である。信仰を与える「神の恩寵の選び」は、人間側の意志や努力によるものではないのである。
 66節「この時から、弟子の多くが離れ去り、もはやイエスと一緒に歩まなくなった」。五千人の供食の奇跡まで、イエスに押し寄せてきた人々は、この「生命のパンの教説」以後去ってしまった。付き従ってきた弟子達の多くもそうであり、イエスの周りには十二弟子を中心としたごく僅かな人々しか残らなかった。ガリラヤの民衆に取り囲まれた時期は去った。供食の奇跡以後、イエスは十二弟子だけを連れて北方の異教の地を巡り歩かれたことを、共観福音書は伝えている。
b.十二弟子の信仰告白
  イエスは十二人(12弟子)に「あなた達もまた、去って行こうとするのか」と言われた。彼らを代表してペテロが「主よ、私達は誰の所に行きましょうか。あなたは永遠の生命の言葉を持っておられます。あなたこそ、神の聖者であることを私達は知っています」と答えた。「永遠の生命の言葉」とは、それを聞いて受け入れる者に永遠の生命を与える言葉(ロゴス)であり、イエス御自身が「永遠の生命の言葉」そのものなのである。共観福音書では、ペテロは「メシア」という表現で告白している。だが、ヨハネ伝は古風な旧約的「神の聖者」という言葉を採用している。民衆が期待した政治的メシアという誤解を避けたというより、十字架と復活以前の地上的出来事として描こうとしたのではないだろうか。
 ところがイエスは彼らに「あなた方十二人を選んだのは私ではなかったか。ところが、あなた方の一人は悪魔ディアボロス)である」と、お答えになった。これは「イスカリオテのシモンの子、ユダのことを言っておられたのである。彼がイエスを裏切ることになるからである。実に、十二人の一人が裏切ったのである」(71節)と、ヨハネ伝は述べている。裏切ったユダを「イスカリオテのシモンの子」としているから、イスカリオテはおそらく地名と推測される。
 弟子達を深く愛したイエスは、その多くが離反していったことを淋しく思われて、弟子達の中で最も信頼し、イスラエルの十二部族になぞらえて選定された十二人に「お前達はどうなのか?」と問われたのである。十二人を代表してペテロが力強く精一杯の信仰告白をした。勿論、それは十二弟子はじめ、イエスの周りに残った弟子達全員の偽らざる心であっただろう。ヨハネ伝の原著者といわれる愛弟子ヨハネも、十二弟子を代表するペテロのこの決然たる信仰告白に励まされ、どこまでもイエスに従う決意を新たにしたことであろう。だが、ああしかし、その十二人の一人がイエスを裏切ったのだ。イエスの十字架の下に立っていたと言われる愛弟子ヨハネの、悔しさ・衝撃が如何に大きかったかが伝わってくる。
 最後に残った弟子達は、イエスの言葉を誤解せずに「霊であり、生命である」と受けとったであろう。しかし、それでもなお、彼らの一人が最後の時点でイエスを霊的な試みに「引き渡す」という悪魔的な裏切りが生じたのである。
  イエスは、ペテロが代表する弟子達の信仰告白を聞いて受け入れ給うた。しかし、ご自分自身が選び分かったこの「十二人」の一人が、最も深い霊的な次元で自分を裏切るであろう事も、分かってい給うたのである。結局、ユダだけでなく、イエス捕縛の時点で弟子達全員が逃げ去ってしまった。それを分かっていてペテロの為に祈り、復活後に散らされた彼らを呼び集め、聖書を解き明かし、ご自分を啓示されたのは、外ならぬイエス御自身である。
 湖上歩行の奇跡では、嵐に悩む弟子達を救助するためにイエスが近づいてこられたのに、弟子達は恐怖の叫び声を上げたのである。イエスが「我なり」と声をかけられて、はじめて彼らはイエスを受け入れたのであった。霊的な感激に燃えた十二弟子達でさえそうであった。だから、人間の決断や霊的理解力だけでは、信仰を貫きとおす事は出来ないことが分かる。イエスの「肉を噛みしめ、その血を飲み」、その人の中に生きてくださるエスの力によってのみ、私達は「十字架に死んで復活されたイエス」への信仰に留まることができるのである。
 今日は、私達の教会のクリスマスである。私達の為に「神から遣わされた」この御方を、私達の心の中に、感謝と讃美と喜びをもってお迎えしようではないか。