家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

天から降ってきた(まことの)パン

☆コロナ禍で、急遽本日及び12月27日はオンライン礼拝になりました。オンライン礼拝参加予定の場合、ご連絡ください。URLでご招待します。午前10:30~です。

☆12月13日は、クリスマス礼拝で集会予定。祝会(ランチ)参加希望の場合も用意しますので、ご一報ください。

 

2020年11月29日

テキスト:ヨハネ伝6:41~59

讃美歌:502&355

                        A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)

3.ユダヤ人との戦いと世に対する勝利(5:1~12:50)
(4)生命のパン
   前回は、イエスを政治的メシア・王として蜂起しようとした群衆(そのリーダー達)との対話で、以下の事が語られた。①イエスが与える食物は物質的食物ではなく永遠の命に至らせる霊的食物であり、永遠の命に至る神の業はイエスを信じることである、②イエス御自身が、世に生命を与える神のパンである、③「父が私に与えて下さる人」は皆、イエスに来ること、④イエスが世に到来されたのは、父なる神の意志を行うためであり、それはイエスを信じる者(父が私に与えて下さる人)が一人も滅びないで永遠の命を持ち、終りの日にイエスが彼らを復活させることである。今回は、それを聞いていたシナゴーグユダヤ人との対話である。
③命のパンをめぐるユダヤ人との対話(6:41~59)
a.生命をもたらす信仰(6:41~47)
 イエスがご自分を「天から降ってきた(パン)」と言われたことで、イエスの職業や両親・家族まで知っていたガリラヤのユダヤ人は躓いてしまった。地上の人間イエスは、明らかに彼らの「仲間」であり、突然天から舞い降りた存在ではなかったからである。よく分かる心理である。これは、イエスの復活を信じるヨハネ共同体と、あくまでイエス人間性固執して復活を信じないシナゴーグ側の論争が反映されている。
 イエスはそれに対し43節「互いに呟くのは止めなさい」と言われた。イエスの復活は、当時もそして現在も、理性には信じがたい事柄である。それを信じ得るのは、ごく限られた(父が引き寄せて下さった)者達だけであり、どちらが正しいか人間的議論で決定するような事ではないからである。パウロは「神はご自分が憐れもうと思う者を憐れみ、頑なにしようとする者を頑なにする」(ロマ9:18)と語った。バニアンが深刻に味わったように、イエスに来る望みを起こさせ、信仰を与え給う神の選びは、人間の理解を超えた事柄である。
 「イエスに来る者」は即ち「父が引き寄せた者」である。イエスはその人を「終りの日に復活させる」と宣言された。
 45節の『彼らは皆、神によって教えられる』という言葉は、そのままでは預言書に存在しない。「父から聞いて学ぶ」ことを、エレミヤ31:33「私は私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」やイザヤ54:13「あなたの子らはみな主に教えをうけ」等に預言された終末時の「新しい契約」の出来事として示しているのである。イエスを信じる事は、自然的人間の能力を超えた超自然の事柄だからである。
 だが、直接「父から聞いて学ぶ」ことができるのは、子なる神のみである。序文にあるとおり、先在の独り子だけが神を見る。つまり、「エスを神が遣わされた者と信じ」、彼に教えられてはじめて「父から聞いて学ぶ」者となり、そうしてはじめて「エスに来る」事ができる。この「信仰に始まり、信仰に至らせる」(ロマ1:17)いわば閉じられた信仰の循環(螺旋?)の中に入る為には、「信じます!信仰なき我を助け給え」と決断して信仰に飛び込む以外にないのである。
 そうする者をイエスが「終りの日に復活させる」とは、上記ロマ1:17の続き「これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである」(ロマ1:17)とのパウロの言葉と一致する。
  イエスは、荘重なアーメン言葉で、「信じる者は、永遠の生命を得ている」と言われた。終りの日に身体の復活に与る力を備えた「信仰」が、既に現在、永遠の生命を信仰者に与えているからである。
b.真の命のパン(6:48~51)
 イエスはすでに35節で、マナ以上の徴を求める群衆に「私が生命のパンである」と言われた。そして、それがマナ以上であることを説明される。50節「それを食べる者は死なない」&51節「それを食べれば、永遠に生きる」。
 そして衝撃的な言葉を続けられた。「私が与えることになるパンとは、世を生かすための私の肉である」。(これは受難以前に語られているので未来形になっている)。聖餐制定の言葉「主イエス、渡される夜、パンをとり…そして言われた『これは私のである』」(Ⅰコリ11:23&24)では身体を表す一般的な言葉である体(ソーマ)が使われているが、ここでは肉(サルクス)となっている。イエスが語られたアラム語〈ビスラ〉は70人訳聖書でギリシャ語サルクス(肉)と翻訳されている。従って、イエスが語られたままの言葉遣いが残された古い伝承であることが分かる。世に生命を与える為に、十字架で裂かれ血を流したイエスのお身体(肉=サルクス)が、イエスが与えようとする生命のパンであると、言われたことになる。要するに、これは受難預言なのである。
 これを言葉通り、「人肉を食う」と受けとったユダヤ人はショックを受けであろう。もっともなことである。しかし、これを「人肉を食う」と単純に受けとらず、過越の羔羊(その血は注がれ、肉は焼いて食料になる)のように、イエスの死が贖罪の為の犠牲であるとだけ受けとっても問題がある。動物ならともかく、一人の人間が他者の為に犠牲死するなど正義であろうか。たとえ自発的犠牲であっても、そんなことを神がお認めになる筈はない。「人はそれぞれ自分の罪の為に死ね」べきだからである。またそうされた側も、それでは生きていけないのである。後の段落に出てくる弟子達の躓きはこれだったのではないだろうか。
 だがナザレのイエスは、ただの殉教した義人ではない。十字架死した「この御方」が、肉の弱さと罪を取り去った栄光の身体に復活された。これが体験され証言されている。その証言の語るところを受け入れ信じるならば、これは終末的出来事であり、世界は転換する。「土だから土に還る」古い契約が終了し、「神と偕なる永遠の命」を人間が与えられる「新しい契約」が開始され、その契約に入る道が開かれたことになる。イエスの復活が、神が「彼は神から派遣された方であり、その十字架死は全人類の贖罪である」と認証された現の証拠なのであり、現在神の右に坐しておられるイエスの生命は世を生かす為の生命である。これが人間の理屈を超えた厳然たる神の判定である。
 そして、死なれたイエスの肉の身体と復活された彼の栄光の身体には一貫性・継続性がある。疑うトマスに、イエスは御手の傷を差し出されたではないか。だから「世を生かすための私の肉 」には、「死んで復活された」イエスの全存在という意味が込められている。
 この贖罪(十字架)と復活という、神が一方的に為された救済を、受け入れるか否か。それが、信仰と不信仰の分かれ目である。イエス(とその出来事)は、真に人間にとって「躓きの岩」なのである。
c.イエスの肉を噛みしめ、その血を飲む(6:52~59)
 イエスは荘重なアーメン言葉で53節の「人の子の肉を食べ、血を飲まなければ、あなた達の内に生命はない」という衝撃的な言葉を語られた。ここに突然「血」が出てくるのは、当然、「主の晩餐=聖餐式」が意識されているからである。パン(=肉)と葡萄酒(=血)である。しかし、獣肉すら「血は命だから」(レビ17:10以下)という律法に従い血抜きして食べるユダヤ人には、吐き気を催す言葉であろう。現代人にとっても、後の段で弟子達が云うとおり「酷い」言葉である。しかも、ここでの「食べる」は単に嚥下するのではなく、口の中で何度も噛みしめ咀嚼するという動詞が使われている。
 つまり、人の子イエスの肉(と血)を食するとは、ただ一度限りのイエスの十字架の贖罪と復活を、個別具体的に「この私」に関わる事柄とすること、イエスの過去の死と現在の復活の生命を、現在の「この私」の中に取り込むことである。それを行う者は、自分の情と欲を既に十字架によって葬り去られたもの(=過去に死んだもの)と見なす。そして、まだ肉にあって生きていても、復活し現在は神の右にいますイエスの生命によって生きようとする。というより、むしろ復活のイエスが自分の中で生きておられると感じる。パウロの「私はキリストの中に、キリストは私の中に生きる」という境地である。
 確かに、信仰への決断をするのは「この私」かも知れない。だが、信仰を与え私の信仰の主体となり「永遠の生命」への忍耐と希望に生きようとさせるのは、私自身ではなく、私の内にいますキリスト・イエスである。彼は、「信仰の創始者であり完成者」なのである。
 それが「肉を噛みしめ、その血を飲む」の本当の意味であり、「天から降ってきたパン」=イエスを食することである。そうする者は、すでに「永遠の生命」を持ち、主はその人を終りの日に復活させると言われた(54節)。
 だから、イエスの「肉と血」として指し示されている「十字架に死んで復活されたイエス」こそが、徴や象徴ではなく実体としての「永遠の生命を与える食物」なのである(55節)。そして、先に述べたように、イエスの死と復活を「この私」の為のことと受け入れ、自分の中に取り込む者は、彼と一体の者となる(56節)。
 イエスの地上の生は、父なる神と一致して生きる生であった。イエスの肉と血を噛みしめ食する信仰者の生も、イエスと一致して生きる始める(57節)。私達がイエスを信じる時、残存する情欲や虚しい誇りといった肉的生だけでなく、むしろそれを否定しそれを超えた、イエスに倣いイエスに従う生を追い求めることが開始する。地上のイエスが、人からは誤解され蔑まれ捨てられ迫害されたように、信仰者の地上での生も自分の十字架を負うてイエスに従う生であるだろう。しかしイエスは、絶えず慰め励まし、喜びをもたらして下さる。モーセの見た柴のように、燃え続けしかも尽きない(焼失しない)生が開始する。その果ては、イエスと共なる永遠の生命である。
 このように、イエスこそは「天から降ってきた(まことの)パン」であって、マナのようにそれを食べても寿命が来れば死んでしまうようなものとは違う。このパンを食べる者は、「永遠に生きる」(58節)。
 イエスは、これをカペナウムのシナゴーグで語られたとヨハネ伝は伝えている。だがこれらは、すでにイエスの復活を信じている者以外には、余りに過激な言葉ではないだろうか。ヨハネ伝は、復活のイエスの言葉を地上のイエスの言葉として語る。つまり、語られている相手は当時のシナゴーグの人々ではなく、これを読む、外から迫害され内には信仰の動揺に悩む、ヨハネ共同体であり現在の私達である。私達はここに、「信じない者ではなく、信じる者になる」(ヨハネ伝20:27)ようにと、私達に呼びかけて下さっている主イエスの御声を聴き取るべきである。