家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

ニコデモ-2「永遠の命」

2020年8月9日

テキスト:ヨハネ伝3:13~21

讃美歌:132&260

                        A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)
2.救済者の初期の徴と啓示説話(2:1~4:54)
(2)エルサレム滞在中の出来事(2:23~3:21)
 前回は、①イエスが、エルサレムで多くの徴(奇跡)を行い。それを見て多くの人がイエスを信じたが、イエスはそれらの人々を信従者としては認められなかったこと、
 ②徴によってイエスを「神から来た教師」と認めるだけでは、イエスを神の子=救主と信ずる信仰ではない。教えを乞おう賭したニコデモに、イエスは、(行いではなく)イエスを神の子=救主と信じて「霊によって、新しく生まれる」信仰なしに、「神の国を見る」ことはできない、と言われた。そして、その信仰を人間にもたらすのは、ただ神の自由な選びによると語られたこと。
 ③人間から神に近づく途(律法の実践など)を一切否定されて困惑するニコデモに、イエスは、(霊から生まれる等の)地上の出来事を語っても信じられないなら、(神の国に入る等の)天の事柄を啓示されてどうして信じられようか、と言われたこと、を学んだ。
 今回は、その続きでイエスの啓示についてである。
b.ニコデモ-2(2:23~3:21)、「永遠の命」
 13節は、天から降って人間となられた(ロゴス=父のふところにある独り子)「人の子=イエス」のほかに、天に上げられて(昇って)、そこから天の奥義を啓示する者はいない、という意味である。これは、ユダヤ教黙示思想の、昇天したエノクやエリヤが終末時に到来して天の奥義を教えるとか、グノーシス派のように、天使(グノーシス)が霊界の知識を人間に伝える、という考えに反対する主張である。これらは、人間の認識能力を前提としているが、高挙のイエスが派遣する聖霊は、人間の能力に関係なく、霊的認識と行動を人間に実現する。これが、イエスの啓示である。
 イエスが、(父のもとから)聖霊を派遣し啓示を与える為には、イエスが天に「上げられ」ることが不可欠である。それが、次の14節を導く。
 14節の、「荒野で上げられた蛇」は、民数記21:4~9に出てくる。荒野を放浪するイスラエルが、水や食料事情の困難に耐えかね不満を漏らしたため、罰として神から火の蛇(毒蛇)を送られた。民が悔改め、赦しを乞うと、モーセは青銅で蛇の像を造り、竿の先に掲げ、これを見上げた者は「生命を得た=蛇の毒から癒やされた」という故事による。この青銅の蛇は後に「ネフシュタン」と呼ばれ、エルサレム神殿におかれたが、偶像化したのでヒゼキア王が打ち壊した(列王下18:4)と伝えられている。
 蛇は、人間を苦しめる霊的諸力の象徴であり、青銅は神の怒りと裁きを現す(申命記28:23「頭上の天は青銅となり'雨を降らせず)」、レビ記26:19「青銅のような地(作物が実らない)」etc.)。蛇が罰せられた死の姿で竿に上げられたと言うことは、イエスが人間の罪を代理し罰せられた姿で十字架に上げられたことを象徴する。(「上げられた」は、だから十字架と高挙(復活)という二つの意味がある)。これを仰ぎ見るとは、イエスの贖いを信じ仰ぐ(信仰する)ことである。
 15節、それ(人の子も上げられねばならないのは)は、(青銅の蛇を仰ぎ見た者が「生命を得た」ように)イエスの十字架の贖いを信じて仰ぎ見る者が、すべて「永遠の命」をえるためである。
 「永遠の命」とは、肉において死んでも死なない神にある生命である。
 ここまでを、イエスの語られた言葉として一応区切りたい。
 また、「人の子」という用語は、イエスが自称された言葉であるが、本来はユダヤ教黙示文学で終末時に審判者として天から出現する救済者を意味している。ユダヤ教の伝統を知らない異邦人には通じないから、パウロは異邦人伝道に際し、この言葉を使っていない。それなのに、「人の子」や「荒野で上げられた蛇」といった専門用語を多用するヨハネ共同体は、長老ヨハネのようなイスラエルの祭司的伝統を強く受け継ぐユダヤキリスト者が中心であったのであろう。そして、イスラエルの祭儀的伝統用語を多用し、対立関係にあるシナゴーグ側の向こうを張り、キリスト教こそイスラエル信仰の正統であることを主張するのである。共観福音書成立当時よりもユダヤ教との分離が進み、すでに異教やユダヤ教と並ぶ一つの宗教勢力となっていたことが窺える。
 次16節から21節までは、ヨハネ伝著者の地の文であり、説教の締めくくりと解釈する。
 16節は、神がその独り子を与える程、世(人間)を愛されたことを語る。愛には何の理由もなく、ただ「憐れもうとする者を憐れむ」神の自由な愛である。その目的は、独り子を信じる者が、一人も滅びないで永遠の命を得ることである。
 御子派遣は世の救済であって、裁くためではない。しかし、御子を信じる者は裁かれないが、信じない者はそのこと(不信仰)によって既に裁かれてしまう。イエス・キリストと出会って、彼を救主として受け入れる「信仰の決断」をしなければ、生命の源である方から自分の意志で離れ、死と滅びを選択することになり、それ自体が裁きだからである。光の到来は、人間の行いが一切悪であることを明らかにしてしまう。自分の行いを悪と認めるのを憎む者は、光より闇、つまり死と滅びを選び、光に来ようとはしない。つまり悪とは、道徳的な善悪と言うより、自分自身に固執して神に従おうとしない人間(自己)主体主義なのである。結果、生命の源である神から切り離されることが滅びであり、死である。だが、(聖霊によって示される)真理を行う者は、自分の悪や虚しさを明らかにされつつなお、あえて光にくる。真理を行うことが(自分からでた業ではなく)神に導かれてなされたとことを明らかにし(=証し)、そのことによって、神に栄光を帰するのである。
 二回に分けて学んだニコデモに関わるこの説話は、とても難解である。「神の国を見る」ことや「永遠の生命」を求める人間の求道心は、なぜ拒否されるのだろう。ナザレ出身と聞いて腰が引けたナタナエルより、ニコデモの方がよっぽど真剣にイエスに来たのではないか。だが求めなかったナタナエルは(イエスを神の子・救主とする)信仰が与えられ、教えを求めたニコデモの求道心は拒否された。私は弟子の召命を「ピタゴラスイッチ」に例えたが、キリスト者を召命する神の自由な選びは、人間の側からはその全貌を測りがたい恩寵の謎であり神秘である。
 だが、「肉から生まれたものは肉である」は人間の求道心についても真実である。その限界を超えるのは、ただ上から、神の自由な働きによって、「霊から生まれる」ことだけである。人間の精進・努力ではなく、ただキリストを信じる信仰によってのみ、人間は義とされ永遠の生命へと新しく生まれる。この事は、キリスト教の歴史においても繰り返し体験されて来た。求道心の果ては自己への絶望である。熱心な修行僧であったルターは自己に絶望し、神の義とは人を義ならしむる義であるという「塔の体験」をした。また、バニヤンの「恩寵溢るる」には、求道に絶望したバニアンが、「私に来る者を、けっして拒みはしない」とのキリストの言葉によって、十字架の福音=「救いの岩なるキリスト」に立つ体験をしたことが語られている。
 これらの「信仰の飛躍」を為さしめたのは、上から来る聖霊の自由な働きであり、人間の力ではなく神の恩寵による。信仰者は、己が義に倒れ伏し、イエスの十字架によって立つのである。まだ「肉」に生きる私達は、どうしても自分の「行い」に縋ろうとする。だから、信仰に入ってからも、生涯にわたって繰り返し十字架を見上げねばならない。イエスの十字架こそ、自己の肉に死に、神によって永遠の命に生きる根拠であり、神に愛され神を愛する場所である。
 最後の21節は、味わい深いではないか。真理を行う者(キリストに信従する者)は、自己の悪や虚しさを明らかにする光(イエス・キリストの十字架)に来る。真理を実行するその行いが、(自力ではなく)神の恩寵によってなされたことを証明して、神に栄光を帰すためである。
 ニコデモがキリスト者となったかどうかを聖書は語っていない。しかし、彼はイエスに来た。彼が「神の国を見る」ためには、上からの霊の働きによって、新しく生まれねばならない。イエスは、ニコデモが自分を知る以上に彼を知り彼を愛された。だからこそ、彼がどう理解しようと、彼が真に必要とする事柄を、真摯に彼に語られたのである。「では、誰が神の国に入れようか?」、主は云われた。「人には出来なくとも、神は為し給う」(ルカ18:27)。