家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

ニコデモ-1「新しく生まれる」

2020年7月26日

テキスト:ヨハネ伝2:23~3:12

讃美歌:1 & 304

 

                        A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)
2.救済者の初期の徴と啓示説話(2:1~4:54)
(2)エルサレム滞在中の出来事(2:23~3:21)
a.エルサレムでの活動(2:23~25)
 ユダヤ教の過越の食事はニサンの月の15日であり、その日から7日間、種なしのパンを食べる除酵祭が続く。ユダヤ教徒はその期間は、エルサレムで過ごすべきとする規定があった。前回取り上げた「宮浄め」事件の過越祭の期間に、イエスエルサレムで多くの奇跡を行われた。それを見て多くの者がイエスを神から遣わされた人と信じるようになった。(確かに、多くのエルサレム住民が、イエスの奇跡を神からの力によるものと見たからこそ、宮浄めで直ちに神殿警察から拘束を受けなかったし、また復活後、エルサレムにおいて原始教会が誕生したことが納得できる。)
 しかし、イエス御自身はそれらの人々にご自分を任せる(信従者として認める)ことはされなかった。奇跡(徴)に基づくだけの信仰では、永遠の命をもたらす信仰として足りないからである。イエスは人間本性をよくご存じであり、各自の心の中に何があるかを見抜かれておられたからである。これを解き明かすのが、次のニコデモにまつわる説話である。
b.ニコデモ-1(3:1~12)、「新しく生まれる」
 さてある晩、奇跡を見て信じた者の一人で、名をニコデモというパリサイ派の議員がイエスを訪ねてきた。この人はサンヘドリンでイエスを正当に取り扱うべきだと主張し(7:50・51)、イエスの葬りに際しては大量の香油を持参した(19:39)。身分高く、裕福で、誰の目からも指導者と見られるほどの人物であったが、パリサイ派らしく神に熱心であり、求道心があった。
 そしてイエスを「神から来た教師」と呼び、「神が偕におられねば、あなたのされたような徴(奇跡)を誰も行うことは出来ないからです」と言った。だから彼は、イエスを単に「父祖の言い伝え=人間的律法解釈」によって教える教師ではなく、「神から来た智慧」によって教える教師と認めたことになる。そして、あの「富める青年」が「良き師よ、永遠の命を受ける為には何をなすべきでしょうか」と問うたように、年長でありラビでもある彼が、若い巡回預言者エスに謙遜に教えを乞うたのであった。おそらく彼も、愛の業によって律法を満たす等の「行いの教え」を期待したのであろう。
 ところがイエスは、「よくよくあなたに言う。人は、〈新しく生まれ〉なければ、〈神の国を見る〉ことは出来ない」と、人間側からの敬虔な行いを否定するような応答をされた。
 「新しく生まれる」と言われても、すでに大人になり経験を積み重ねて今の自分が存在するのである。今更、生まれたての赤子のようになれと云われても無理である。ニコデモは、親からもういっぺん生まれ直すなど不可能ではないかと答えた。
 そこで、イエスは「誰でも、〈水と霊とによって生まれ〉なければ、〈神の国に入る〉ことは出来ない」と云われた。先に言われた「新しく生まれる」を言い換えられたのである。
 「神の国を見る」或いは「神の国に入る」とは、神との永続する正しい関係(永遠の命)に入ることであり、これこそが信仰の目標である。イエスは、その為には、何らかの行いではなく、生まれ変わって新しい人間にならねばならないと言われた。では、どのようにして「新しく生まれる」ことが可能なのだろうか。
 「新しく生まれる」を「水と霊とによって生まれる」と言われてやっと、私達も、あ、これは洗礼のことだな、と気がつく。水による洗礼は、目に見えない聖霊による洗礼の徴であることは、前に学んだ。肝心なのは、「聖霊による」である。ヨハネ伝序文に「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、…神によって生まれたのである。」(1:12~13)とある。イエスを「神の子=救主」として受け入れ信じる者が、「神によって生まれた=新しく生まれた」者である。つまりイエスを単にラビや預言者としてではなく、「神の子=救主」として受け入れ信じることが「新しく生まれる」ことである。イエスを「神の子=救主」として信ずる信仰なしに、「神の国を見る」ことは出来ない。
 生まれながらの「肉」である人間は、どんな精進・努力をしても人間性の限界を超えることは出来ない。求道心すらも、自己追求でしかない。これが「肉から生まれた者は肉である」の意味である。人間性を超えた神的な事柄を理解するのは、ただ神から「新しく生まれた」者だけである。これが「霊から生まれた者は霊である」の意味である。この断絶を打ち破ることが出来るのは、ただ神の自由な働きしかない。
 イエスは、「『新しく生まれる』と言ったことに、驚いてはならない。風は目に見えないが、思いのままに自由に吹き、その働きと作用を生じさせる。そのように、(神の霊は)自由に働いて人間を新しく霊から生まれさせるのである」と、言われた。
 だから、「神の国を見る」ためには、ただ神の働きで「新しく生まれる」しかない、と人間側の精進・努力を一切否定されたことになる。それではシェマーの呼びかけや、預言者達の呼びかけはいったい何だったのか?神の民たらんと願い、戒めの実践に努めてきたパリサイ人ニコデモは、(業不要論に)ただ困惑し「どうしてそんなことがあり得ようか」というばかりであった。イエスを「神から来た教師」と見るだけの、「徴」に基づく信仰の限界がここにある。
 イエスは「世の光」であるから、人間の闇を照らしだし、「富める青年」やニコデモのような真面目な求道心すら人間性の限界内の「闇の業」であることを明らかにしてしまう。この限界を超えるためには、イエスを「神から来た教師」としてではなく、彼を神の子=救主と信じる「信仰への決断」をして、イエスのもとに来るしかない。そして、それ(決断・飛躍)を為さしめるのは、神の霊(ブネウマ=風)の働きである、とイエスは遠回しにニコデモに語られたのである。
 ニコデモの鈍さは、神との関係を律法とその実践にしか見いだせないユダヤ教思想からきている。神に熱心な彼は、真剣に律法実践に努めて来たことであろう。だが、それに縛られて「(律法を守り得ない)罪人を義とする」神の自由な働きに思い至らなかった。仕方ないことである。人間からは誰も、それが事実として生じるまで予測もつかなかったのだから。
 しかし、そもそもイスラエルは、何の資格もなしに、ただ神の自由な恩寵の選びによってのみ、神の民とされたのではないか。その選民イスラエルの教師でありながら、その程度のこと(神の人間への自由な愛)も理解出来ないのかとイエスは言われた。
 その次の言葉は、いつの間にか主語が複数の「わたしたち」になり、キリスト者が実際に体験している救いの現実を証言しても、「ユダヤ人達」シナゴーグ側はその証言を受け入れようとはしないと、「わたしたち=ヨハネ共同体?」として嘆いている。そして、再び単数主語に変わり、イエスの言葉として、すでに地上の事柄(霊的人間の出現)を語っても信じないユダヤ人達が、「神の国を見る」など天的な事柄をどうして理解できようかと、語っている。このように、ヨハネ伝は著者の地の文とイエスの言葉が入り混じり、しかも教会が現在体験している「復活のイエス」を「地上のイエス」に重ね合わせて記述している。
 このニコデモの逸話も、夜分のニコデモ来訪を核として、「徴」による信仰の限界を説き、イエスを救主と信ずる信仰へと導くための説教として作成されたものであろう。どこまでがニコデモに語られた言葉か判然としない。次の13節から21節もこの話の続きであるが、今日はここまでで区切り、次回取り上げることとする。
 それにしても「風(神の霊)は思いのままに吹く」とは、恐ろしい言葉ではないか。イエスを「神の子=救主」と信じる信仰すらも、神の自由な選びによらねば与えられない。選びの対象外となる可能性があるのである。しかし、神は真実な方である。私達はただ、イエスを救主として「信じます」と自分の意志で信仰の告白・決断をなし、かつ「信仰ない私を助け給え」と祈って、神により恃むべきである。