家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

カナの婚礼

2020年6月28日

テキスト:ヨハネ伝2:1~12

讃美歌:174&169

      A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)                        
 前回は、最初の弟子達の召命を取り上げた。今回は、イエスの最初の奇跡(徴)である。

2.救済者の初期の徴と啓示説話(2:1~4:54)
(1)新しい時代の到来
a.カナの婚礼(2:1~12)
 三日目(多分、ピリポ召命から)に、ガリラヤのカナで婚礼があり、イエスも弟子達も招かれて出席された。当時の婚礼は、地域共同体全体のお祝いであり何日かにわたって宴会が開かれた。イエスの母も宴席にいた。ところが、宴会の最中に肝心の葡萄酒が尽きてしまった。現代の私達は、そんなことは主催者側が心配することだろうと思う。しかし、イエスの母はイエスに「葡萄酒がなくなってしまいました」と告げた。おそらく当事者と特に親しい関係(親戚?)があり、宴会を手伝っていたのかも知れない。だがイエスは「女よ、それが私とあなたに何の関わりがあるか。私の時はまだきていません」と云われた。この一見冷たい拒絶に、まず目が止まる。
 母親を「母よ」ではなく「女よ」と呼ぶのは、もはや私人ではなく公人たる救済者として立たれておられるからとも考えられる。だが、祈りにおいては神を「アッバ=おとうさま」と親しく呼ばれることと比べると、なんたる違いであろうか。弟子達(信従者)に家族的関係(親子兄弟姉妹等)を全く棄てきる信従を求められた通り(ルカ14:26ほか)、イエス御自身も血縁やこの世的な関係を全く棄てきり、全身全霊を挙げて神に献身しておられるからである。そしてその後に、「わたしの時」即ち「世の罪を負う羔羊としての職務(贖罪)を果たすべき時」はまだ来ていない、と言われた、つまり宴会の窮状を救うことは自分の職務外であると拒絶の理由を示されたのである。
 ところが、こうハッキリと拒絶されたにも関わらず、母マリアはその家の僕達(奴隷達)にイエスの指示には何んでも従うよう言い残して立ち去る。彼女は、夫ヨセフに早く先立たれた。大勢の幼い子供を抱えた寡婦として、この聡明で畏敬の念を抱かせる長男イエスを物心両面で幾度頼みとしてきたことであろう。一昔前の日本でも、母親が長男を家長として敬う姿はよく見られたものだが、ましてイエスほどの御方である。当面する問題を告げて、彼に委ねればよいことを彼女は体得していた。だからああしてくれこうしてくれと指図や要求をしない。ただ、彼に信頼してその指示に従えばよいのである。
 これに較べ、私達の祈りは何と指図と要求に満ちているかを思う。どうか○○に就職させて下さい、どうか○○となりますように、云々。そうではなく、自分が直面する困難と希望を神に訴え、その状況での助けと導きを願い、神に信頼し服従すべきなのである。
 さて、その家には容量2~3メレテス(1メレテス=約39リットル、つまり約100リットル)の石の水甕が六個置いてあった。清めを重視するユダヤ教では身体だけでなく、食器や寝台に至るまでいちいち洗い清める習慣があり、水が大量に必要であった。だが、風呂桶ほどの大容量の水甕が6個とは、よほどの大家族の家だったのだろう。イエスは奴隷達に、全部の甕を満水にせよと命じられた。カナは山地の町だから低地にある井戸からの水汲み運搬は相当の重労働である。しかし、奴隷達は指示通り何度も運んで甕を縁まで満水にした。すると、イエスは「さあ、それを汲んで宴会の世話役のところにもっていきなさい」と言われた。水は葡萄酒に変化していたのである。世話役は運ばれてきた極上の葡萄酒を味見し、それがどうやって調達されたのか知らなかったので(水汲みをした奴隷達は知っていたが)、花婿を呼びつけ、なんで最初からこの葡萄酒を出さなかったのかと文句を言った。
 この奇跡の特別さは、まず奴隷達の汗水垂らす労苦を要求することである。私の父は伝道者であった。日曜礼拝や祈祷会、信徒の世話ほか、一生懸命身を粉にして働いてもなかなか成果は上がらない.むしろ落胆することの方が多い。だが、伝道者の労苦と涙が満たされた時、主はそれを芳醇な葡萄酒に変えて神の国の祝宴に用いて下さる、とこの奇跡から学んで慰められると語っていた。いくら労苦して運んだところで、それは唯の水であり、人間の業でしかない。だが、僕達の労苦が縁まで満たされた時、イエスはそれを極上の葡萄酒に変えて祝宴に用いて下さる。だから決して人間の業の成果ではなく、神の祝福であり奇跡なのである。この奇跡の根底には、涙を喜びへと変えて下さる(教会の)花婿イエスのお姿がある。甕の水が全部変化したのか、それとも宴会世話役に届ける分だけが変化したのかなど些末の議論は、不要であろう。
 この奇跡のもう一つの特徴は、その目立たなさ、というかむしろ密か(内密)さである。世話役も宴会の主人側も、列席者たちもだれもこの奇跡に気がつかない。知っていたのは、汗水垂らして労苦した奴隷達と、イエスの指示の成り行きや如何にと、注目していた弟子達だけであった。ここに「徴」としてのポイントがある。
 「徴」とは、何事かを指し示す記号(マーク)であり、それ自体に意義があるものではない。水をワインに変化させるとは、石をパンに変えると同様、神の力を人間の要求に従わせることである。イエスはそれを拒否された。彼は、信じる者達にこの世的な幸せを約束する方ではない。水をワインに変えて人間を熱狂させるディオニソス神ではないのである。人間の欲望や必要は決して尽きることがないのであり、それを追い求めて人間は疲れ果てる。そうではなく、①尽きることのない究極の満足と喜び、「神と共にある平和」(豚に真珠と言うとおり、生まれつきの人間はそれを求めようともしない)を人間に与えんが為に、イエスは到来された。だが、神は人間の現世的な困窮や必要を知っておられ、御心に従って助けを与え給う。母マリアが信頼した通り、②この世的な喜びをも(神の国と神の義に)「添えて」お与え下さるのである。イエスは奴隷達の労苦を、驚嘆と喜びに変えられた。カナの婚礼の奇跡は、祝宴の窮状を救ったこと自体に意味があるのではなく、弟子達にイエスのこの二重の神的栄光を示す「徴」として意味がある。だからイエスを「主」と仰ぐ信仰者達にのみ、この奇跡が開示され栄光を示す「徴」として受け取られた。内密で神秘的感じはそこからくる。
 そして何事もなかったかのように宴会が果て、イエスは母や兄弟達、弟子達と共にカペナウムに下っていき(カペナウムは海抜下200メートルだから、山地のカナからは下ることになる)、そこにしばらく滞在された。
 神が人間に顕現される時、人間は神を見ることは出来ないので、その「栄光」を見る。そのように、弟子達はこの徴の指し示すイエスの栄光を見て、信じた。すでに信従者であった弟子達の信仰は、さらに深められたのである。おそらく彼らも、直ぐにはこの奇跡の示す深い意味を理解できなかったであろう。だが、この出来事を心に留め反芻し、イエス体験を重ねるなかで、単なる奇跡行為者以上であるイエスの神的栄光を悟りえたのだと思う。私達も、直ぐには理解できなかった聖書の真理が、いつしか胸に落ち、神を讃美することがある。目立たなくとも、これも自分の身に及んだ奇跡であり、神の祝福なのである。