家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

最初の弟子達の召命

2020年6月14日

テキスト:ヨハネ伝1:35~51

讃美歌:79&124

                                  ヨハネによる福音書
 前回は、洗礼者ヨハネの証しを取り上げた。今回は、イエスの最初の弟子達の召命である。
                        A.救済者の地上の働き(1:19~12:50)
1.洗礼者ヨハネの証と弟子の召命(1:19~51)
(2)最初の弟子達の召命(1:35~51)
 共観福音書では、イエスガリラヤ湖畔で最初の弟子達を召命された事になっている。そして、彼らは職業と家族を棄ててイエスに従った。だが、ヨハネ伝では少し異なっている。最初の弟子達は洗礼者の活動していた「ヨルダン川東岸のベツサイダ」で、洗礼者の弟子集団の中から生まれたとされている。おそらく、荒野の試練後にイエスはしばらく洗礼者弟子集団の中にとどまられ、その後にガリラヤでの活動を開始されたのであろう。共観福音書の記載は、その間の次第を単純に図式化して記述したものと思われる。
 さて、最初の小石を転がしたのは洗礼者であった。彼は、イエスが歩いてゆかれるのを見て、傍らにいた二人の弟子に「見よ、神の子羊」といった。つまり、「世の罪を負う神の羔羊」であり「聖霊による洗礼を授ける方」という証言を彼らに為したのであろう。それを聞いて二人はイエスの後を追った。イエスは振り返って「何を求めているのか」と言われ、二人はお泊まりになる場所を尋ね、ついて行ってそこに泊まった。(イエスとの出会いの時刻は)第十時、現在で言う午後4時頃と記録されている。時刻に何の意味があるの?と、はじめてここを読む人は思うだろう。あるのである。それまで自分主体で判断し決断する思っていた人が、一八〇度転換して神の摂理に動かされていると気づく時、例えば回心の場合などに、その人はその出来事が起きた地上的時刻をハッキリと記憶するのである。「われわれの心は、あなたのうちに憩うまでは安らぎを得ません」と告白したアウグスティヌスは、「あなたのうちに憩う」ことを得た(回心の)出来事を、「とりて読め」と聞こえる子供の声に従い、ロマ書13:13~14を読んだ瞬間、「私の心は急激に静まり、内にほのかな光が差し込んできた」と述べている。また、パスカルは「1654年11月23日月曜日、夜十時半ころより零時半ころまで。〈火〉、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者および識者の神ならず。イエス・キリストの神」と回心の時刻を記録している。アンデレと無名のもう一人の弟子(おそらく若い日の長老ヨハネ)は、自分達が神に見出され、捉えられてキリストの所有とされたこの時刻を決して忘れず、心に刻みこんだのである。
 感動と喜びに溢れたアンデレは、自分の兄弟シモンを探しに行き「メシアに出会った」といって、彼をイエスのもとに連れてきた。もはや洗礼者に説得されて「どれどれ」状態で(試しに)イエスの後を追った彼ではない。神に見出され、イエスに召し出されて弟子となったのである。
 アンデレに連れてこられたシモンを見て、まだ紹介も受けないうちにイエスは彼を「バルヨナ・シモン(ヨハネの子シモン)」と名を呼び、あなたをケパ(ギリシャ語ではペテロ=岩)と呼ぼうと云われた。この時すでに、イエスの眼差しはシモンを捉え教会の土台として任命されたのである。
 その翌日(というかそのことがあった後)、イエスガリラヤに行こうとされる途中で、ピリポに出会い、彼に目を留めて「私に従ってきなさい」と言われた。ピリポは自分が求めも探しもしないうちに、キリストに見出されたのである。これは私達キリスト者の体験ではないだろうか。賛美歌に「求めず知らず過ごししうちに、主は先ず我を認め給えり」(249番)とある。主が先ず私達の所に来て下さったのである。
 石は転がり続ける。ピリポは親友ナタナエルを探し出し、「律法と預言者により予告された人(メシア)、ナザレのイエスに今出会った」と告げた。ピリポは、ペテロ・アンデレ兄弟の故郷であるガリラヤ湖北岸のベツサイダ出身とある。この町は、国守ピリポがローマ皇帝の娘にちなんでユリアス・ベツサイダと命名した地であり、かなりヘレニズム化されていた。ピリポの名前からしギリシャ風である。当然、ペテロ兄弟やピリポ等は日常的にギリシャ語を使用していたと思われる。
 さて、ナタナエル(神与え給うの意味。相当に古風な旧約聖書的名前)は、イエスがナザレ出身と聞いて、腰が引けてしまった。熱心に旧約聖書の預言を研究していた彼は、ナザレに関する何の預言もないことを知っていたのである。だが、ピリポに押し切られ、イエスのもとにいくことにした。イエスは、彼が近づいてきたのを見て「見よ、彼は真のイスラエル人。彼のうちには偽りがない」と言われた。ナタナエルは驚いて一面識もない自分をどうして知っておられるのか尋ねると、「ピリポがあなたに声をかける以前に、あなたが無花果の木の下に座っているのを見た」と言われた。イエスが一目で人を見抜き、その人がなるべき姿を預言されることはペテロの場合に明白である。では、「無花果の木の下に座る」とはどう言う意味だろう。ここを、ナタナエルがピリポに会う直前、木陰で聖書を読んでいて、それを見抜かれたと解釈すると、その程度の透視力に驚いて、いきなり「神の子」「イスラエルの王」と信仰告白したことになる。あまりに軽率ではないか。
 「無花果の木の下に座る」とは、ミカ4:4やゼカリヤ3:10等でメシアのもたらす平和の時代におけるイスラエルの生命に溢れた生活を描写する定型的文言である。ナタナエルはそれを願い求めて、熱心に聖書を調べてきたのである。彼の妙に旧約的な名前も、「神が(メシアのもたらす平和を)与え給う」事を祈って自称したのであろう。本名はおそらくバルトロマイ(トマスの息子の意味)だろうと云われている。イエスの眼差しは彼に、彼が将来受けるであろう「メシアのもたらす平和を享受し、真のイスラエル人として生きる」姿を見、それを預言(約束)されたのであった。
 この瞬間、ナタナエルは自分の祈りが天に届いた事を悟った。そして直ちに、それを告げて下さった方に、メシア告白を為したのである。
 イエスは、「あなたは、私があなたを無花果の木の下に座っているのを見たと言ったから信じたのか。これよりももっと大いなる事、人の子の上に天使が上り下りするのを見ることになるだろう」と云われた。ヤコブが夢の梯子で天使が上り下りするのを見たように、「人の子」つまりイエス御自身ががベテル(天国の門)であり、天(神)と地(人)をつなぐ絆であり、イエスにおいて神を礼拝すべき事を知るであろうと預言されたのである。
 今日学んだところは、人が如何にしてイエスの弟子(キリスト者)になるかである。
①洗礼者の勧めでイエスを追った二人は、自分達が選ぶのではなく、逆にイエスに選ばれた。
②ペテロは、自分がイエスを知らないうちに、イエスによって召され教会の土台と任命された。
③ピリポは、自分からイエスに来たのではなく、イエスが彼に来て、彼を弟子とされた。
④ナタナエルは、自分の祈りが聞き届けられ、かつそれ以上の偉大な神の業をイエスに見るとの預言を受けた。
 弟子とされた者全員の特徴は、彼らがまだイエスも、イエスがもたらす救いが如何なるものであるかもよく知らないままに、イエスをキリストと告白する決断を為した点にある。回心とは、信仰へと飛躍しスタートを切る決断である。これから、弟子達は色んな経験をする。困惑や挫折、なかでもイエスの死は彼らを打ちのめした。然し彼らは「倒れても、また立ち上がる」(ミカ7:8)のであり、ついには自分達が弟子とされたのは、個人や一民族の救済を超えて、全世界全被造物を救済する、神の偉大な御業の一部であったことを知るようになる。彼らは、その為の「ピタゴラスイッチ」として選び出されたのである。彼らのメシア告白は、神によってなさしめられたのである。
 私達も日々の信仰への決断を、自分だけに関わる個人的なこと考えてはいけない。それは神の御業であり、この小さな決断(芥子種)を用いて、御国を成長させ給うのである。イエスはその為に生命を献げられた。そして、このようにして、神は御業を地に為し遂げ給う。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ロマ8:28)。
 そうであるなら「二匹の魚と五つのパン」として、自分の信仰を主に献げようではないか。