家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

2020年5月3日

テキスト:ヨハネ伝1:1~18
讃美歌:2&11
                                          ヨハネによる福音書
 今回から、ヨハネによる福音書本文を少しずつ学んでいきたい。感染症予防で活動が制限される日々だが、多くことに思い悩み、心を乱している状態から「なくてならぬただ一つのもの」(ルカ1:42)へと目を向ける恵みの時と捉え聖書の言葉に耳を傾けたい。
 この書の著者や著作の背景について、前回の「はじめに」でまとめたことを一応の前提とする。
                                        A.序文(1:1~18)
 福音書とは、今も神の右に坐し支配し給う復活者イエス・キリストの、地上での出来事を物語る事によって、この方への信仰と随順を呼び起こすために書かれたものである。著者ヨハネ(原著者も編集者も含めて著者ヨハネという)は、これから語ろうとするイエスの物語全体を概観・要約し、そこから導き出されるキリスト論を、エペソ周辺教会で用いられた一つの賛美歌を引用、補足して序文とした。
 長老ヨハネは、うら若い少年の頃、師と仰いだ洗礼者ヨハネに導かれて、イエスに出会い弟子とされた。それからイエスの十字架と復活を体験し、キリスト教信仰と教会の誕生に立ち会い、迫害や神殿崩壊、離散を体験しつつ、キリストの証人として働いてきた。自分を召し、救済の経緯の中に置いて下さった主を、彼は先ず讃美せずに居れない。抽象的で難解に思われる序文であるが、私達のできる範囲で語られていることを学んでいきたい。
(1)言(ロゴス)の先在と神的本質
「1節 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
 ヘブル書に「神は…御子によって私達に語られました」(1:1~2)とあるように、イエス・キリストによって私達人間に神が啓示された。と言うことは、イエス・キリストは神の「言葉=ロゴス」としての性質をもっておられる。愛の表現(言葉)が愛する心から生まれ出て、区別され独立した存在でありながら心と不即不離、同じ本質をもつように、ロゴスは第一者なる神(父)から生まれ、本質を同じくしつつも、独立した人格を持つ神(子)であり、(父なる)神と共に創造以前から存在しておられた。パウロも「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られるまえに生まれた」(コロサイ1:15)と述べている。
(2)万物万象の根源であるロゴス
「2節 この言は、初めに神と共にあった。
 3節 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」
 ギリシャストア派では「ロゴス」を「コスモス=世界」の根源と考えた。「ロゴス」という用語には、「万物の根源」の意味合いが込められている。ロゴスが創造以前から神と共におられて、神の「言葉」として創造に関与された。「神が(光りあれ)と言われた。すると光があった」(創世記1:3)。神は「言葉=ロゴス」によって万物万象を創造され、ロゴスの関与なしに生起したものは何一つなかった。パウロも「万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られた」(コロサイ1:16)と語る。ロゴスが神と万物万象の間に関与し、万物万象の根源なのである。
(2)ロゴスは生命であり、光である。
「4節 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
 5節 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
 ここにある「命」は「ゾーエー」という用語が使われている。生物的な(死によって失われる)生命とは違う、神御自身が持っておられる不滅の「永遠の命」の意味である。生起する被造物や歴史自体の中にではなく、絶えず生起せしめていくロゴスの中に、不滅の「命=ゾーエー」が存在する。その命は人間の中にはないが、しかし人間を照らす光として神を想起させた。ヘブル書1:1「神は…、多くのかたちで、多くの仕方で先祖に語られた」とある。最後決定的な啓示としてイエス・キリストが到来される以前から、ロゴスの「命」は人間を照らした。人間と世界はそれ自体では「闇」であるけれども、朝日が昇る前にまず高い山の頂を照らし(光の反射として)輝かせるように、預言やその他多くの手段・形式で、神の啓示が人間に与えられてきた。創造の初めから今に至るまで、光は世界の「闇」を駆逐するものとして輝いている(ここは現在形)。しかし「闇」である人間自体は「向日性」がなく、つまり光を受け入れ理解することができなかった。ロマ書1:21「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって…心が鈍く暗くなった」。
 (私達も、与えられた信仰の光なしには、自分と自分を取り巻く世界が闇と混沌と見えることを実感する。存在する意味も、生きる根拠も、希望と喜びも、みなこの光に照らされて明らかになる。)
(4)光についての証人
「6節 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
 7節 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
 8節 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」
 突然、ここで歴史的具体的な人名が挙げられる。洗礼者ヨハネが活動した時代、ユダヤは永く続く異民族支配に苦しみ、預言された神の支配(神の国)への待望が高まっていた。終末の審判接近を告知する洗礼者の悔改め運動は、たちまち人々をひきつけ、ユダヤ全土、その他各地から大勢の人々がきて洗礼者から悔改めの洗礼を受けたことは共観福音書にも記されている。だがヨハネ伝は、洗礼者の審判告知や悔改め運動等について何も語らない。洗礼者について何よりも重大なのは、(長老ヨハネ自身もその他イエスの最初の弟子達が)彼の「指し示し」によって、イエスに導かれたという事実である。イエス登場以前に、洗礼者は「来たるべき審判者」を予告し、イエスが洗礼者のもとに来られると、直ちに(イエスが語り行動される前に)「神の羔羊=民の罪を浄める方」として指し示した。神が彼を立て派遣したのは、この「指し示し」つまり証しをなすためであった。洗礼者の特徴は、預言者のように具体的な内容の預言(例えば捕囚からの帰還など)ではなく、望楼の見張りのように、到来するものに備えよと警告の叫びを上げ、それが到来すれば先に警告した備えるべき相手はこれだと指し示し確認する、証人としての働きである。
 また、彼(洗礼者が代表する使徒的証人達)の「証し」を通して、すべての人が信じるためである。太陽が地上を照らし、照らされた山や物体が明るくなるのを見て、人間が光の存在を知るように、すべての人間は神が照明した洗礼者(のような人間)の「指し示し」によって信じるようになる。つまり使徒達や証人達の証言(=聖書の言葉)やその解き明かしによって信じるようになる。洗礼者の派遣はそのためであった。
 だが、洗礼者は光源ではなく、光源を指し示す証人として到来したのである。これを言う必要があるのは、ヨハネ伝執筆当時、洗礼者こそ「メシア」だと信じ「ヨハネの洗礼」を授ける人々が存在したからである。
(5)世に到来した光
「9節 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
 10節 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
 11節 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」
 ここではじめて、ロゴスの「世=コスモス」への到来が語られる。ロゴスの光に照明されて、すべての人は神の霊的な事柄(真理)を認識する(見る)事が出来る。ロゴスは被造物世界(世)の根源であり、世はロゴスによって生起したのに、世は自分に到来したロゴスを自分の根源者として認めず、自分と縁のないよそ者として扱った。つまり、ロゴスはご自分の被支配者(民)である人間達に到来したのに、彼らはロゴスを自分の主人として受け入れなかった。
(6)神の子となる力
「12節 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
 13節 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」
 しかし、創造する言葉であるロゴスは、愛の言葉が応答(の愛)を生じさせるように、世に来たロゴスを受け入れる人間を生じさせた。「その名」を信じるとは、具体的に「ナザレのイエス」を「神の御子=子なる神」として信じることである。ロゴスを受け入れ、信じる人々に、ロゴスは(永遠の命をもつ)神の子(子供=テクノン)となる資格(または力)をお与えになった。直ちに(神の子)とした、ではなく「資格を与えた」と言うのは、その人間がロゴスを受け入れ、信じる者であるのは、ロゴスの啓示と支えに依存し、この地上にあってはまだ完成ではなく、「神の子」への途上にあるからである。
 これらの人々は、血統(アブラハムの子孫とか)によらず、肉体的生殖欲や、そうありたいという人間の意志や努力によってではなく、無から有を創り出す神によって、「石からアブラハムの子を創り出し」「水を良質の葡萄酒に変化させる」ように奇跡的に生みだされたのである。
 以上、大変長くなったので、今日はここまでにしたい。ここまで語られた事は、より古いパウロの書簡にも出てくる「キリスト賛歌」(例えば、コロサイ1:15以下)とほぼ同じ内容である。
 著者は、パウロ的な「キリスト論」に同意しつつ、十字架と復活だけではなく、地上でのイエスの活動や言葉も、長老ヨハネが自分で体験したことも含め、啓示として証言しようとしている。だから、元の賛歌に洗礼者という歴史的人物の行動を絡ませ、地上のイエスの出来事を語り出す序文とした。
 序文の後半は、次回にとりあげたい。