家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

ヨハネによる福音書、著者問題など

2020年4月26日

                                               ヨハネによる福音書
                                                     はじめに
 4月にマタイ伝を読了したので、5月から、ヨハネによる福音書を学んでいきたい。この福音書に正しく聴き、信仰を新たにするために、ある程度、著者や成立当時の状況を知りたいと思う。だが、著者が明確ではなく、しかも数度の編集を経て現在の形になったとされ、色々な説があって私達には詳しく検討する能力はない。そこで、何冊かの本や資料から、ある程度こうではないかと思える事を下記にまとめた。それを一応の前提として、本文を読んでいきたい。
(1)著者について
 ヨハネ伝は長らくゼベダイの子使徒ヨハネが著者であると信じられてきた。だが、現在の研究ではそれは否定されている。しかし、この福音書には共観福音書よりも古い伝承または直接体験した者しか書けない記事と思われるものが含まれている。だから、使徒ヨハネではなくとも、直接地上のイエスを体験した弟子の証言がもとになっていると考える。では、この直弟子は誰か。
 ヨハネ伝には無名の「主が愛された弟子」が何度も登場する(以下、愛弟子という)。そして、ヨハネ伝を書き、証したのはこの弟子と記述されている(21:24)。だが、そう記述するのは「われわれ」と称する者達(つまり編集者達)である。愛弟子がヨハネ伝のもとになる証言を行ったか執筆し、それを彼を中心に集まっていた団体の人々が現在の形に編集・加筆したという言う事になる。
 では、この愛弟子はどんな人物か。
 ①二世紀後半のエペソの教会監督(司教)ポリュクラテスは異端論争の手紙の中で「主の御胸に寄りかかったヨハネは、祭司の前当て(エポデ)をつける祭司であり、証人であり教師であったが、エペソの地で安息に入った」と書いている(エウセビオス「教会史」5巻25章)。
 ②また、二世紀末のリヨンの監督エイレナイオスは、福音書成立の事情を述べた「異端論駁」3巻1章で共観福音書について述べた後に「最後に、主の御胸に寄りかかった主の弟子ヨハネは、アジアのエペソにいるときに福音書を出した」と述べている。
 ③ヨハネ伝の大祭司の審問の場面で、この弟子は大祭司邸に顔パスで入ることができた(18;15)。また、共観福音書では、イエスエルサレム滞在は最後の一週間だけのように記述されているが、ヨハネ伝ではイエスエルサレムに滞在中の記事が多く、何度かエルサレムに上られたと思われる。愛弟子が直接体験したことであろう。
 以上のことから、愛弟子の名前はヨハネであり、エルサレムに住居を持つかなり高位の祭司階級出身であって、十二使徒を中心とする出家弟子集団(ガリラヤ出身者中心)に属さない在家弟子と推測される。後世に誤解されたようにゼベダイの子使徒ヨハネとは別人である。イエスエルサレム滞在時の出来事を多く目撃体験し、それを中心に証言している。
 身分上かなり裕福で、ユダヤ教の伝統だけでなく(ユダヤ戦記を書いたヨセフスのように)ヘレニズム的教養も身につけた教養人階級である。イエスに母マリアを託され、自宅に引き取って世話したという伝承がある。イエスの兄弟たちが迫害される状況下、ある程度迫害を免れる身分と資産を有したであろう彼にはありそうなことである。
 また、最初は洗礼者ヨハネの弟子であったが、洗礼者の指示でアンデレと共にイエスに従うようになった。イエスの最初の弟子の一人である。
 そして十二使徒や地上のイエスと面識のあった人物が次々と殉教した後、最後まで長命を保ち、主の再臨まで死なないという噂が立ったというからには、イエス十二使徒等よりかなり年下であり、イエスの十字架死の時点では20歳以下であったと思われる。
(2)ヨハネ共同体の形成
 イエスの復活後、ペテロ等十二使徒を中心に形成された原始エルサレム教団は、使徒等の指導の下に共同生活した(仏教で言う出家集団のようなもの)と言われている。だが信仰を同じくしていても、愛弟子ヨハネは高位祭司階級の者として職を離れることなく、出家集団に加わらず在家に留まった。国粋主義ユダヤ人による43年のゼベダイの子ヤコブ殺害や、主の兄弟ヤコブの殺害を体験し、憤激を感じたであろう。62年頃、原始教団がエルサレムを脱出したあとも名門祭司の彼はエルサレムに残った。だが、66年第一次ユダヤ戦争勃発前後に、戦禍を避けてエルサレムを脱出したようである(多分64年頃)。シリアに向かう途中サマリアに一時滞在して、伝道を行ったと思われる。サマリアでは、67年、聖地ゲリジム山に集結したサマリア人たちがローマに壊滅させられる事件があった。そして最終的には、かなり自由な国際都市であり、ユダヤ人が多く居住しシナゴーグや異邦人も含む教会、またその他の宗教が並存したエペソに移住し、そこで没した。
 エルサレム脱出時、50歳代であった彼には一族郎党のほか、その影響下にある同じような身分のキリスト者達も同行したであろう。黙示録記者「僕ヨハネ」(祭司階級にはヨハネという名前が多い。紛らわしいので愛弟子を以後「長老ヨハネ」と称する)もその一人ではないかと思われる。
 長老ヨハネは、その信仰・人格、またイエス直弟子の生き残りとして人々を惹きつけたであろう。しかし、ペテロ等のような教会を組織・指導するという立場ではなく、日本の内村鑑三賀川豊彦のように、彼を中心とした「信仰運動」や「学派・サークル」のような、自由で対等な、緩やかな集団(共同体)を形成したようだ。彼はある程度裕福な末期ヘレニズム的ユダヤ教伝統を身につけた教養人キリスト者であったから、彼を中心に集まった者達も社会的にはかなり上層階層の者が多かったようだ。共観福音書と違って、貧困への関心がヨハネ伝にはあまり見られない。エペソではパウロの創設した教会が存在し、ペテロを継承する者らの指導下にあった。長老ヨハネは既存の教会と対立せず、重なり合う形でヨハネ共同体がエペソ周辺に複数形成されたと思われる。
(3)ヨハネ共同体とその運命
 90年、ヤムニアに再建されたサンヘドリンはキリスト教徒を異端としてユダヤ教から追放した。政治的メシア運動をめぐり、右派(ローマ寄り)サンヘドリンがイエスを謀殺し、左派(国粋主義者たち)が原始教団を迫害し使徒ヤコブや主の兄弟ヤコブが殺された。ユダヤ戦争により両派が消滅後、パリサイ派中心に再建されたサンヘドリンも、またもやキリスト者達を異端としてシナゴーグユダヤ教)からの追放を決めた。折しも、ドミティアヌス帝(92~96)の大迫害が開始され、公認宗教ユダヤ教からの追放は、直接ローマ官憲の弾圧に曝される事態を引き起こした。実際、官憲の弾圧によりキリスト教を棄教する者(大部分はユダヤ教に回帰)も多く出た。長老ヨハネおよびヨハネ共同体の積もり積もった怒りは、ヨハネ伝に「ユダヤ人」(民族ではなく、キリスト教を拒むユダヤ教指導部)への反感となって反映している。
 長老ヨハネはマルコ伝の存在を知っており、ペテロ伝承を中心としたマルコ伝を、自分の証言で補足・訂正する形で「原ヨハネ伝」を執筆したようである。自分の体験だけでなく、イエスの奇跡集(「しるし資料」)も用いている。だが90年代初頭、高齢で没した。
 ローマによる迫害が開始される中、学頭とも言うべき長老ヨハネの死は共同体に混乱をもたらした。指導体制というものを持たなかったからである。ここで現れたのがヨハネ黙示録である。著者「僕ヨハネ」は、ユダヤ教祭司的伝統に立ちかつヨハネ共同体の有力者であった。流刑地パトモス島から、アジアの七つの教会(おそらくヨハネ共同体影響下の教会)に手紙で指導を行った。
 96年、ドミティアヌス帝が暗殺され、迫害が休息すると、ヨハネ共同体の人々は、集団指導体制(ヨハネ伝中、「われわれ」と自称する)を形成し、長老ヨハネが残した遺稿の整理・編集を行い、長老ヨハネの告別説教をイエスの告別説教の形で編集・追加し、第1章から第20章(ヨハネ伝第一稿)を完成させた。これが100年頃と思われる。
 一方、キリスト教信仰からそれる異端との戦いがあった。ヘレニズム的化現説論者(イエスの肉体的存在を否定する。ドケチズムという)である。これはキリスト教信仰全体の問題であった。ローマ官憲からの弾圧と異端との内外両面からの戦いに直面し、ヨハネ共同体はペテロを継承する教会と一致団結して立ち向かう必要があった。ここで両派(ヨハネ共同体とペテロ系教会)の合同が行われた。ヨハネ共同体の持つイエス伝承の豊富さを認めつつ、ペテロ系教会に吸収合併される形である。それを確認するために120年頃、21章が付加され現在の形のヨハネ伝が成立した。だが、ヨハネ伝21章末尾等に「この書に書かれなかった」イエス伝承がまだあるとの記載は、異端に異なる伝承を「まだ書かれていない」真性の伝承として唱えさせる虞がある。そこから、教会は伝承を限定する正典編集の方向に進んだ。