家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

イエスの葬りと墓

2020年3月22日

テキスト:マタイ伝27:55~61

讃美歌:142

                    第6部 受難とイースター(26:1~28:20)

 前回、イエスの十字架と死を取り上げ、死の直後、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂け、地震が起き、岩が裂け等、旧約では神顕現とされる出来事が生起したこと、その結果、(イエスの衣をくじ引き分けし)処刑の番をしていた兵士等から「まことに、この人は神の子であった」という証言が生じたことを読んだ。今回は、イエスの葬りと墓を取り上げる。
6.5 十字架の側の女達
 マタイは、弟子たちすべてが逃げ去ってイエスはすべての人からも神からも見捨てられた形で十字架に死なれたように記述している。だが、ルカ伝にはイエスゴルゴダへと向かう後から「民衆と嘆き悲しむ婦人達が…群れをなして従った」とある。実際、十字架の傍らには多くの女達がいたのである。彼女らはガリラヤからイエスに従ってきた者達であった。男の弟子達は一味として警戒され、逮捕される危険があった。だが女達は、処刑に手出しするおそれがないとみられ放置された。彼女たちが、イエスの十字架と死、埋葬、そして空虚な墓の証人となった。その中にマグダラのマリアや、おなじみのゼベダイ兄弟の母、ヤコブとヨセフというマタイの教会で知られた人物達の母もいた。女性弟子達だけは、少なくともイエスを見捨てて逃げ去ったのではなく、悲嘆にくれつつ十字架に付き添ったのであった。
6.6 イエスの埋葬
 他方、私達をホッとさせるもう一人の人物がいる。夕方、アリマタヤ出身のヨセフという金持ちがピラトを訪れ、イエスのご遺体の引き取りを願い出た。ラクダが針の穴を通るほど困難であっても、神は金持ちの彼をもイエスの弟子とされたのである。マルコ伝では、サンヘドリンの議員とされているこの人物は、あの裕福な青年と同様、持ち物を全部売り払って従うことはできなかった。だが、イエスの十字架刑を知り、彼は決心した。「人がどう言おうと、自分がどうなろうと、あの義人イエスの亡骸を引き取り、丁重に葬る!」。何の見返りがなくとも、人間は愛に駆られて動くことがあるのである。こうして彼はご遺体を引き取り、洗い浄め、香油を塗り、衣服を整えなど、心を込めて手続きしたであろうが、マタイは何も記述しない。ただ、後で復活の間接証明となるはずの、亡骸をくるみこんだ真新しい亜麻布についてだけは言及する。空虚な墓に残される物的証拠だからである。そして岩を掘って作られ、前室を備えた豪華な墓で、まだ誰も葬ったことがない新しい墓に、エジプトのファラオや貴人のように、イエスを単独で葬った。そして、荒らされないように大きな岩で入口を塞ぎ、立ち去った。この一部始終を女達が見まもり、去りがたく墓前に留まった。
 福音書を読むほどの者は、イエスの物語が十字架と死で終わる筈がないことを承知している。また、イエスの最後の叫び「なぜ、わたしを見捨てられるのですか!」に対する神の返答は、まだである。その答え=復活の布石として、イエスの葬りと墓が語られ、使徒信条にあるとおり「死にて葬られ」た事実が記載される。その目撃証人として、女達がいた。死ぬと言うことは、現実の肉の体でイエスが生きられたことの確証ではないか。
 今日は、ここまでにする。
 私達は、2017年1月から丸三年以上かけてマタイ伝を読んできた。二千年以上前にユダヤベツレヘムに生まれ、ゴルゴダで死なれたおおよそ30年の主の御生涯が、人間と被造物世界にとってどんなに大きな出来事であるかを、思いたい。神が人間として生まれ、活動し、死なれた。それほどまでに肉なる者と連帯されたのである。そして、復活された。これによって、肉にある者に、神と共なる永遠の生命への希望が生まれたのである。そして今、天と地を支配するのは、かつてナザレのイエスとして生き、霊の体に復活された方である。神はその独り子を一人の人間とされる程、この世を愛して下さった。これを知る時、私達も感謝と喜びに溢れて神を愛する。イエスの御生涯を、私達は大切に心に抱き、その意味を繰り返し聖書から学び、主を慕い、その御跡に従う者でありたい。
 イースターが4月15日なので、次の礼拝は受難週にあたる。礼拝に代えて、マタイ受難曲後半を聴く予定である。
 今日は、これで礼拝を終えDVDでマタイ受難曲を聴く。約3時間の大曲なので、今日は、序曲と、イエスの審問から判決まで約一時間ほどを聴き、受難週は礼拝に代えて十字架から葬り迄を聴きたいと思う。

以下は、黙読のこと
マタイ受難曲
 受難曲は、聖金曜日に礼拝に於いて演奏されるもので、約一時間の説教を挟んで第一部と第二部に分かれる。福音書の受難記事が朗読(朗唱)され、それに対する応答としてアリアやコラールが歌われる。通常は、簡単に「これは○○福音書による受難記事である」という言葉ではじまるが、バッハは冒頭を大規模な序曲で開始している。
 序曲は、沈痛なるオーケストラで始まり、第一合唱隊が「来たり、ともに嘆け」と呼びかけると、第二合唱隊が「何を」と尋ね返す。イエスが十字架を担ってゴルゴダに向かう姿を目撃している「シオンの娘」が、現在の信仰者(会衆)に呼びかける形である。教会の花婿たるイエスの姿が、贖罪の小羊のようであることが歌い出されると、そこにコラール(少年合唱隊)が「おお神の小羊」と入ってきて、イエスの受難の意味を明らかにする。こうして聴衆は、時空を超えてイエスの受難を眼前にみるようかのように受難記事(福音書記者の言葉)を聞く心備えがなされるのである。
 福音書記者の朗唱(レシタチーブ)も、オペラの台詞のような付け足しの音楽ではなく、出来事を体感するかのような見事な音楽である。アリアは、どちらかというと受難記事に触れた個々の敬虔者の内面的応答であり、コラールは教会全体としての応答と考えられる。コラール選曲は、バッハに任されており、彼の神学的思索と信仰的体験を反映している。
 前半の頂点は、ピラトが「彼(イエス)はどんな悪事を働いたのか?」と尋ねると、ソプラノが「彼は何の悪事もせず、善いことをのみ為されたのです」と応え、「ただ愛によって、彼は死のうとされるのです」とアリアを歌う場面ではないだろうか。イエスの苦難と死は、私達への愛故であった。
 受難週にはイエスの十字架と死、そして葬りを聴く。イエスが死んで下さったことによって、死は裁きと絶望ではなく、イエス・キリストにある命への、希望の入り口となった。コラールは「いつの日か私が去りゆくとき、」と死における慰めをイエスに呼びかける。そしてイエスの死直後の地震等がローマ兵に恐れと戦きを起こさせ、「げにこの人は神の子であった」という告白が、合唱で静かに沸き起こる。これがイエスの問い「なぜ私を捨てられたのですか」に対する神の最初の答であり、後半の頂点と感じられる。神なき者達から、信仰が湧き起こるために。
 まだ復活は語られない。だが、イエスの死が神との平和をもたらし、新しい契約の開始となって、安息の気配がたちこめてくる。そして、現在の聴衆も(女達と共に)イエスの墓前にひざまずく気持ちで、終曲となる。
 私達の為になされた主の御受難の意味を、この受難曲を一つの助けとして深く思い、心からの感謝と讃美をもってイースターを迎えたいと思う。