家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

ピラトの審問とローマ兵による虐待

2020年2月23日
テキスト:マタイ伝27:11~31

讃美歌:258&136

                    第6部 受難とイースター(26:1~28:20)

 前回は、イエス審問を中断するユダの死と血の畑(アケルダマ)の地名譚に関わる箇所を読んだ。イエスの有罪を聞いたユダは痛恨し縊死を遂げた。これに対し、イエス謀殺の首謀者たる祭司長等は、ユダの告白を知ったことかと冷たくあしらい「お前自身の問題だ」と突っぱねた。無辜のイエス殺害を罪とも思わず、そのくせ些末な清浄規定には馬鹿にこだわりユダが投げ込んだ金を不浄として神殿財庫には入れないのである。敬虔なる律法の民の転倒ぶりと、罪の深さは恐ろしいばかりである。ただし、ここには福音書成立当時の再建サンヘドリン(キリスト者を異端として弾圧した)への批判が込められていることを注意しておきたい。
 では、異邦人らはどうであったのか。今回は、イエスを十字架刑に処したローマ側ピラトの審問を取り上げる。
5. ローマ人達によるイエスへの有罪判決(27:11~31)
 この段落は二つの場面に分かれる。最初は①ピラトの面前での審問、場所はピラトがエルサレムに滞在中の官邸前広場である、次は②ローマ兵によるイエスの嘲弄と虐待、場所は官邸内である。
5.1 ピラトの審問
 ここの描写は恐ろしく簡潔である。イエスを反乱罪で突き出した祭司長等の言い分や訴訟手続きなど一切省略し、ピラトとイエスの対話だけに絞っている。ピラトは支配するローマの権威に関わる者としてユダヤ人の王権を主張するかどうか質した。イエスは大祭司への返答と同じ消極的肯定「それはあなたが言うことだ」(ユダヤ人の王であっても、ローマと覇権を争うような王ではないから)と答え、祭司長等の訴えには一言も抗弁されない。抗弁しないということは、罪状を認めたことになる。ピラトは奇異の念を抱いた。
 そうこうするうちに、広場には事件を聞きつけたユダヤ人群衆が集まってきた。ローマの裁判は公開であったから、ピラトは治安維持上、群衆の意向を考慮にいれつつ判断を行う必要があった。ローマの民衆支配の手立ての一つに民意に添った囚人の恩赦や解放もあり、祭りの度に民衆の意にかなう囚人を一人解放することが慣習となっていた。ピラトは、評判のバラバ・イエス(アッバの息子イエスという意味)という者とイエスとどちらか一人を選べと群衆に告げる。イエスは危険人物ではなく、引き渡されたのは、祭司長等がイエスの民衆の間での成功を妬んだ為だと見当がついていたからである。
 さて、ピラトが裁判の一段高い座に着いたとき、彼の妻が伝言をよこした。「あの義人には関係しないで下さい。その人につき、昨夜夢で酷く苦しみましたから」というのである。これはユダの告白につぐ第二のイエスの無罪証言である。イエスが誕生されたときも、「ユダヤ人の王」として生まれたと夢で告げられたのは、異邦人の博士達であった。その時もエルサレム住民とヘロデ王はイエス殺害を試みた。エルサレム住民(神殿貴族等)がイエスを殺害しようとする今、またしても異邦人(ヘロデの妻)に夢でイエスが義人であることが告げられた。だが、この時点ですでに民衆は、バラバを釈放しイエスを十字架刑とするよう祭司長等に説得されていた。ピラトがどちらを釈放するか尋ねると、民衆はバラバを選ぶ。ピラトが「ではメシアといわれているイエスは?」と尋ねると、全員(皆)が十字架につけよと叫んだ。ピラトは妻からの伝言もあり、かつイエスが危険人物とも思わないのでイエスを釈放しようと「彼がどんな悪事をしたのか!」と言ってみた。(イエスの為したことは、盲人に光を与え、病めるを癒やし、死人を立ち上がらせ、貧者に福音を聴かせたことでははないか!)。だが、民衆は却って猛り立ってイエスを処刑せよと叫んだ。
 ここでピラトの嫌らしさが示される。彼は民衆の意向がどうであれ、支配者の権限を持ってイエスを釈放することが出来た。事実60年代、同じように神殿批判しローマに引き渡されたユダヤ預言者を、当時の総督は民衆の意向に拘わらず釈放している。だが、ピラトは水盤を持ってこさせ、手を洗ってイエス処刑の責任をユダヤ人側に押しつけることにした。「この人の血について、私には責任がない。お前等の問題だ!」。結局、ユダを突っぱねた祭司長等と同じことを言ったのである。
 ところが、ここまでただ皆とあった群衆が、突然「民全体」と表記され「その責任は、我々と子孫にある」と答える。マタイのこの表現が、現代にいたるまでユダヤ人迫害の根拠となってきたことは、ハッキリ意識すべきである。これを叫んだのはその場にいた群衆達であり、すべてのユダヤ人ではない。事実、マタイとその教会はユダヤキリスト者達ではないか。だがマタイは、伝統的な「神にそむく民」としてエルサレム住民等を描き、70年のエルサレム陥落と神殿崩壊はその神罰であると言いたかったのである。実際、イエスの言葉として「(義人の血の報いは)すべて今の時代の者達に(限定されている)ふりかかってくる」(23:36)とある。だが、この言葉の影響はそれを超えて現代まで、キリスト者ユダヤ民族の苦難を「当然の神罰」と考える根拠となってしまった。
 歴史的事実としては旧約聖書的なピラトの洗手は虚構であり、伝統的な「そむく民」としてサンヘドリン側を描こうとする福音書記者の創作であろう。実際は、ピラトはユダヤ側の言いなりになるのが不快なだけで、イエスの生命や法的正義などどうでも良かったのである。彼の権限はローマ支配に反抗する者の処刑であり、無辜の者を処刑することは世俗のローマ法によっても殺人である。だが、ピラトは何の罪の意識もなく、平然と、身分の低い者達にそうであったように正式な有罪判決もなしで、イエスを十字架刑執行へと引き渡したのであった。
5.2 兵士たちによる虐待と嘲弄
 十字架刑で殺される者は、先ず裸にされ、枝分かれし先端に金属片を括り付けた笞で打たれた。失血させ体力を奪うためである。その上ローマ兵等は、鞭打ち後のイエスに茨の冠をかぶせ、王笏として葦の棒を持たせ、紫の衣の代用に安っぽい赤い衣を着せ「ユダヤ人の王、万歳!」と叫んでひれ伏し、イエスを嘲弄した。そして葦の棒を取り上げ、頭を何度も叩いて茨を頭に食い込ませ、唾を吐きかけ、赤い衣を剥いでもとの服を着せた。鞭打ちで全身傷と血にまみれ、茨の冠からの流血で顔も血だらけの無残な姿とされたのである。
 サンヘドリンで議員や下役達が、やがて雲に乗り審判者として来たるべき「人の子」を虐待し嘲弄したと同様、ローマ兵らも、「ユダヤ人の王」でありやがて全世界の審判者として仰ぎ見るべき方を、嘲弄し暴行を加え虐待した。
 そして彼等だけではない。苦難の僕を「神に打たれ苦しめらるるなり」とイスラエルの民が思ったように、キリスト者ユダヤ民族を「神に打たれ苦しめらるるなり」と思い迫害してきた。だからユダヤ人も異邦人も歴代のキリスト者も、等しく、逆境にある者の苦難を当然と思いそれに加担する残虐な人間性のもとにある。文明や教養の薄皮一枚の下には、獣にも劣る凶暴な人間の本性が潜んでいることを、アウシュビッツや原爆の第二次大戦は明らかにした。平穏な日常に守られた私達自身も、同じく深い罪の肉に生きているのである。
 イエスをかくも無残な姿としたのは、ほかでもない私達自身、人間の罪

なのである。