家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

大祭司の審問-2

 

2020年1月12日

テキスト:マタイ伝26:63~68

讃美歌:505&348

                    第6部 受難とイースター(26:1~28:20)

 今年初めての、礼拝である。この礼拝を継続できたのは、ひとえに神の憐れみによる。それを覚えてまず深く感謝したい。また、今後のことも主の導きに委ねて、従順に歩んでいきたい。
 前回は、祭司長らの審判を取り上げ、「神の子、メシアか」との祭司長の問いへのイエスの返答の前半分「それはあなたがいったことだ」までを読んだ。今回はその後半分から取り上げたい。
4. 大祭司の宮殿で(26:57~27:10)
4.2 大祭司の前での審判(続き)
  イエスは、「メシアか」の問いに対する答えに、問われたのではない事柄を付け加えられた。「しかし、わたしは言っておく。今から後、あなた方は人の子が『力(神)』の右に座し、天の雲に乗って来るのをみるだろう」である。これは、弟子達にはすでに語っておられた(16:27)が、ここで初めて、弟子達以外のものに公に言われたことになる。
 神の右に座り、人の子として世界を裁くというイエスの主張は、ユダヤ人にとって人間である自分を神と同列に置く神の大権への介入であり、神の独一性を犯すものと感じられた。9章の中風の者の癒やしの場面で「あなたの罪は赦される」とイエスが言われると、「この人は、神を冒瀆している」とある律法学者が心の中で思ったとある。同様に、ステパノが「イエスが神の右に立っておられるのがみえる」と云いったことが、人間イエスと神を同列におく冒瀆としてユダヤ人を激怒させ、石打ちになった。
 そこで大祭司は、衣を引き裂きながら言った「神を冒瀆した。もはやこれ以上の証拠は不要だ。諸君は、今冒瀆の言葉を聞いた。どう思うか」。その場の全員が「死刑にすべきだ!」と答えた。結果、騒乱罪で有罪にする予定が、実際には神聖冒瀆という宗教的罪状で死に値するとされたのである。
 マタイ伝のこの場面は、イエスを主(裁き主)として告白する初期ユダヤキリスト者が、人間イエスを神に並ぶ者としたとして、シナゴーグから追放迫害された体験が、色濃く反映されている。(現代の私達も使徒信条で主を「生ける者と死ねる者とを裁き給わん」と告白している。)神殿を破壊され、祭儀なし律法のみでイスラエル信仰を守り通そうとした時代のユダヤ教が、イエスを裁き主と告白するキリスト者を異端として激しく攻撃したことは理解できる。
 迫害されたマタイの教会は、自分たち(キリスト者)の苦難は、主イエスが先んじて歩まれた道の追随と理解したであろう。(主は「自分の十字架を負って、私に従いなさい」と云われた)。そしてその道の果ては、復活の勝利に通じることを思って励まされたであろう。
 事実、人の子=イエスだけが「それぞれの行いに応じて報いる」審判者である。この場は、審判されるべき者達(大祭司ら人間達)が、真の審判者を審判するという、とんでもない逆転の場面なのである。
 私達も、イエスを迫害した当時のユダヤ教徒を非難するだけではならない。神に熱心であったパリサイ人サウロが、シナゴーグを渡り歩いてキリスト者を迫害したように、神の憐れみがなければ、神に仕えると思い込んで、逆に神に逆らうことをしてしまうことがあるのである。聖霊の導きを祈りつつ、謙虚に聖書の語ることを聞き取っていきたい。
 さて、イエスが祭司長らにこの言葉を告げられた意味を考えてみたい。
 まず第一は、政治的思惑からイエスを抹殺しようとする大祭司らの審問が、神から裁きを受けるべきこと、つまり彼らに対する裁きの言葉である。しかも、裁くことができるのは罪のない方(姦淫の女を石打ちできるのは、罪のない者だけであった)、死に至るまで神に信実であるイエスのみである。だから高位の審判者として、下位にある罪人に告げておられる。
 第二に、大祭司らに対する信実さである。彼は、彼らを敵対者として無視するのではなく、真に彼らが聞くべきことを告げられた。まさに、裁きを受けるべき人間が裁き主を裁こうとする大逆転を明らかにされた。悪に対し否を語ることは、相手に対する誠意である。イエスは大祭司らの罪のためにも死を引き受けられたのである。彼の裁きは、だから愛と真実による裁きである。私達はこの方の正しい裁きをこそ、「頭を上げて」待ち望むのである。
 イエスは義人として、罪人を裁く資格のある方であり、同時に、神に逆らう人間の罪を贖うために死に引き渡され給う方、ヘブル書のいう永遠の大祭司であり給う。イエスは裁き、かつ贖い給う方である。この方の裁きは正しい。今後、彼らはイエスはそのような方としてみることになると、誠実に告げられたのであった。
 ステパノはイエス殺害の咎でユダヤ人の罪を弾劾し、かつ自分を石打ちする者らを「神よ、彼らを赦し給え。その為すところ知らざればなり」と言って死んだ。悪に対する否は、正義と愛から語らるべきなのである。イエスは、ご自分の言葉が利用され死に値するとされることを恐れず、誠実に彼らに正しい裁きを告げられたのである。
4.3 最初の虐待(26:67~68)
 イエスを死に値するとした議員らは、自分たちをあんなにも恐れさせたイエスが、こんなにもたやすく思い通りとなったことから、それまでの鹿爪らしい態度を投げ捨て、憎悪と軽蔑を露わにした。イエスの顔に唾を吐きかけ、拳で殴り、平手打ちして打った者の名前を言い当ててみろとなぶった。マルコ伝は、(議員らが)目隠しして拳で殴り、名前を言い当てよといい、下役らが平手打ちしたことになっているが、マタイは少し変更している。目撃証人はいないが、ユダヤ戦争の頃に神殿批判した預言者が、同じように逮捕され虐待されたという記録が残っているから、イエスへの野蛮な虐待は事実であろう。暴行を受け蔑まれるイエスを思い、私達はただ沈黙しうなだれるのみである。
 以上、逮捕から祭司長らの審問(それは人間の目から見ればどん底の窮地である)を通し、イエスがいかに強くかつ真実のであられたかが描かれてきた。
 一方、イエスを気遣って後を追ってきた中庭のペテロはどうなったであろうか。祭司長らの審問記事と結びついてペテロの否認の物語がある。後に教会の柱となった使徒に関わり、彼の暗い体験に関わるものであるから、かなり史実に近いものであろう。次回に取り上げることとする。