家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

ゲッセマネの祈り

 

2019年11月17日

テキスト:マタイ伝26:30~456

讃美歌:515&294

                    第6部 受難とイースター(26:1~28:20)

 前回は、イエスの最後の晩餐、その準備とエルサレムでの過越の食事、食卓においてユダの偽りを指摘されたこと、そしてパン裂きと杯の回し飲みによる聖餐制定が語られた。
 今回は、その食事が終わってからの出来事である。
3. ゲッセマネにて(26:30~56)
3.1 目前に迫る弟子達の離反(26:31~35)
 過越の祝いの食事が終わり、一同は賛美歌(詩編115~118が用いられたようである)を歌って集いを終わらせ、オリブ山に向かった。そこに向かう途中で、イエスはまたも衝撃的なことを言われた。「①今夜、あなたたちは全員、私に躓く。『わたし(神)は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまうと』(ゼカリア13:7)と書いてあるからだ。②しかし、わたしは復活した後、あなた方より先にガリラヤへ行く」。
 弟子達と一緒に過越を祝い、そして聖餐制定の言葉に続けて、彼らと共にする父の国の祝宴を予告されたイエスが、その同じ夜に、弟子達が躓き、離散することを告げられたのだから、弟子達の動揺と困惑は大きかった。イエスは続けて、②復活後に彼らに先立ちガリラヤに行くと言われた。だが弟子達は、最初の①弟子達の躓きと離散の予告に驚き、それも耳に入らなかった。ペテロはただちに「例え、皆があなたに躓いてもわたしは決して躓きません!」と応えると、イエスは「アーメン、あなたは今夜鶏が3度鳴く前(午前3時くらいまで)に3度、私を知らないと言う。」と言われた。ペテロはむきになって「例え、ご一緒に死ぬことになっても、あなたを知らないなど決して申しません」といい、他の弟子達も皆、同じように言った。
 ゼカリアのいう「罪と汚れを浄める一つの泉」が開かれるためには、牧者(イエス)は殺害され、イスラエルの民(弟子達)は散らされねばならない。だが、その離散は一時的であり、復活したイエスが弟子達に先立ってガリラヤ(暗黒の中に光がのぼる所)に行き、再び彼らを集めると、イエスは二つのことを予告された。だが、弟子達は自分の離散予告に衝撃を受け拒否反応するばかりで、慰めとなるガリラヤでの再会を受け入れられる状態ではなかった。
 ペテロは、イエスが最初にご自分の受難と復活を予告された時は、「とんでもない!そんなことがあってはなりません」とイエスを諫め、叱責を受けた(16:21~23)。だから今度はそうは云わず、例え皆が躓いても自分だけは例外だといい、3度の否認を予告されれば、頭からそれを否定して、それなら自分もご一緒に死ぬとまで言った。だが、それから数時間後、その言葉が彼を裏切る。ほかの弟子達も皆、同じように言いつのり、同じ結果となる。ペテロですらこうである。私達は決して、神の助けなしで自分を信じてはならない。
 対称的に際立つのは、イエスの予告の確かさである。単にペテロの否認だけではなく、弟子達の離散だけでなく、復活後に弟子達に先立ってガリラヤに行かれることまで予告しておられる。これから起きる出来事が神の御手にあり、事態を動かすのは神であることを把握し、ご自分の運命を神に委ねようとしておられるのである。
3.2 ゲッセマネの祈り(26:36~46)
 オリブ山のゲッセマネ(油搾りという意味らしい)という場所に着くと、他の弟子達をそこに待たせ、山上の変貌の時と同じ顔ぶれのペテロとゼベダイ兄弟(ヤコブヨハネ)3人だけを伴って離れた所に向かわれた。そこで、耐え難い悲しみと不安を示され、伴われた3人に一緒に祈るよう求められた。そして彼らから少し離れて、一人でいわゆるゲッセマネの祈りを3度繰り返された。だがその間、3人の弟子達は情けなくも眠ってしまった。
 この場面でまず私達が驚くのは、イエスがご自分の悲しみと不安を露わにされたことである。伴われた3人は、彼が最も信頼し肉親よりも親しいとした者達である。その彼らだからこそ、ご自分の苦しみを示されたのだ。
 しかし、最も心打たれるのは、イエスの孤独である。苦悩と不安の中、孤独に耐えがたくペテロらに祈りの支えを求め、かつ彼らを離れて一人で父と向き合われた。地にひれ伏し、可能であればこの杯(死)を過ぎ去らせて下さいと願い、だが自分の願いではなく父の御心の成就を祈る。まさに「主の祈り」を祈られた。神は沈黙しておられ、イエスは祈りにおいてもただ一人であった。祈りを終え、弟子達の所に戻ると、彼らは眠っていた。神からも、最も身近な友からも断絶を味わい、イエスは孤独にご自分であり続ける。だが、祈りによって力づけれられた彼は、もはや弟子達の支えを求めない。かえって弟子達の弱さを顧み、励まし給うた。
 弟子達から離れ、2回目に祈られたときは死の杯を受け入れる覚悟を決め、もはや自分の願いを訴えずに父の御心の成就のみを祈られた。弟子達はまた眠っていた。だがイエスは彼らを起こそうともせず、孤独のまま、今までそうであったとおりに神を愛し、十戒の第一の掟を完全に満たす者として、父に服従する決意と心づもりを形成される。
 3度目の祈りは、それを御子であるご自分の意志として祈り、父と一致して祈られた。そして弟子達の所に戻り、もはや悩む者としてではなく、進んで十字架の死に立ち向かう主導的行為者として、力強く「立て、行こう。」と言われた。
 イエスの悲しみと不安は、私達が知りえない神的苦しみである。彼は、父を知る御子であり、父の「愛する子、心に叶う」ただ一人の者である。及ばぬ例えながら、アブラハムの心を知るイサクの苦しみと考えてみよう。神にとって彼は、アブラハムにとってのイサク以上の者である。神が彼を死に引き渡すことは、神ご自身を否定するがごときである。父はそれを決意された。子は、その暗黒の決意に戦かれる。弓が引き絞られ極限まで撓むように、神はご自分の存在を賭けて行動しようとされるのである。三度繰り返された祈りにおいて、御子は、父の沈黙の意志に服従し給うた。神は、彼において行動される。
 私達は、イエスゲッセマネの祈りのような偉大な祈りを祈ることはできない。だが、自分の希望の全てであるイサク殺害を実行しようとするアブラハムのように、自分を滅ぼす神を恃みとしたヨブのように、自分の絶望と滅びを超えてなお、神を尊び愛し恃みとする途があることを教えられる。アブラハムはイサクを取り戻し、ヨブは健康と幸いを取り戻した。だが、イエスはその道を終わりまで、十字架の死と陰府まで、完全に歩み通された。イエス以外に誰が、このように自分を捨てて完全に神に信頼し服従することができるだろうか。
 私達は、このイエスの従順によって支えられている。この義人の名によって祈り、神を「父」と呼ぶことが許される。神が沈黙し私達に敵対されるように感じられる時でも、自分の願いではなく神の支配の成就を祈ったイエスの祈りが、私達の模範となる。神は彼を陰府に捨て置き給わなかった。苦しみの中で神に服従したイエスを見上げ、「目を覚まして」絶えず祈る者でありたい。