家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

最後の晩餐と聖餐制定

 

2019年11月3日

テキスト:マタイ伝26:17~29

讃美歌:258&262

                    第6部 受難とイースター(26:1~28:20)

 前回は、イエスが言葉による宣教を終えられ、いよいよご自分が成就すべき受難が開始すると告げられたことを学んだ。これは過越祭の二日前(数えでだから過越祭の前日)である。その頃、祭司長達はイエス謀殺を合議し、その実行を民衆に騒乱を起こさせないよう過越祭後と予定していた。
 その日、イエス一行はベタニアのシモン宅でもてなしを受けた。すると、ある女が食事中のイエスに近づき、300デナリもする高価な香油を注ぐという突発事があった。弟子達は彼女の行為を浪費として憤慨したが、イエスは自分の葬りの支度であるとして受け入れらた。そして、彼女の奉仕はこの福音が伝えられる所すべてで記念として語られると言われた。
 折しも、弟子の一人ユダが、金銭と引き換えにイエス引き渡しを大祭司らに申し出て、その機会を狙っていた。
2. イエスの最後の過越祭(26:17~29)
2.1 過越の準備(26:17~19)
 過越祭の初日に、弟子達はどこでイエスと自分たちが過越の食事を為すべきかイエスに尋ねた。過越の食事は決められた場所(この場合、エルサレム)でせねばならぬ律法規定があったのである。イエスエルサレム住民の何某か(名前は伝えられていない)に、「私の時が近い!あなた宅で私と弟子達の過越をする」と伝えるように指示した。弟子達と何某は、その指示に従って、過越の食事の準備をした。
 弟子達はイエスに「あなたの過越」と尋ねている。マタイは暗に、モーセの過越とは異なるイエスの過越(罪と死を免れさせる)であることを強調する。そして、イエスは「私の時が近い!」として、エルサレム住民の何某かに、依頼ではなく命令として、彼の住居でイエス一行が過越の食事をすると伝えられた。あらかじめ彼と打ち合わせがあった等は何も語られない。ただその何某かと弟子達がそれに従って支度をしたこと、すなわち主の命令が実行されたことを報告し、イエスの尊厳を強調している。
2.2 ユダの偽りを暴露する(26:20~25)
 その日の遅い時刻(過越の食事は夜の間になされるから)、一行は過越の食事ため横たわった。(当時、食事は横たわってとるのが正式であり、儀式の食卓はなおさらそうすべきであった。テーブルを囲んで椅子に座っている絵画表現は間違いである)。食事中にイエスは、この食卓に就いている者の一人がご自分を引き渡そうとしていると予告された。弟子達は非常に悲しくなり口々に「私ではないでしょうね」尋ね始めた。食卓には、レタスなどの緑色野菜を浸して食べるために、果物や木の実のジャムを入れた鉢が置かれていた。イエスは、皆が浸して食べるその同じ鉢にイエスと共に食物を浸す者(全員がそうであった)の一人が、そうすると厳密に言われ、人の子は聖書に予言されたとおりに世を去っていくが、その手引きをする者は、災いであると言われた。生まれなかったほうがその人にはよかっただろうと言われた。ユダが「ラビ、私ではありませんよね」というと、イエスは「あなたがそういった!」と、彼の虚偽を暴かれた。
 この場面で、ユダの裏切りを知っていたのは、イエスと引き渡しの機会を狙っていたユダ本人しかいない。他の弟子達が動揺したのは、現在その意志がなくとも将来の自分が不安になったからだ。だがユダは、裏切るつもりなのに他の弟子達の手前、自分も同じように不安なふり(偽り)をしてみせたのだ。しかも、イエスを「主」ではなく、「ラビ=律法教師の先生」と呼ぶ。ユダがすでに弟子の共同体から脱落していたことを示している。イエスが言われた「(裏切るつもりの)あなたが、そう言う」との言葉は、ユダには虚偽の指摘として胸に応えたであろう。だが、他の弟子達はなんの意味か分からなかった。
3.3 聖餐制定(26:26~29)
 食事中、イエスはパンを取って賛美してそれを割き、皆に与えて言われた。「取って食べなさい。これは私の体である。」また杯を取り、感謝してそれを回し飲みするように渡して言われた。「皆、この杯から飲め。これは、罪の赦しを得させるため、多くの人のために流す私の血、契約の血である。」と、いわゆる聖餐制定の言葉を述べられた。最後に、「私は、父の国であなた方と共に新たに飲むその日まで、葡萄の実から作った物を飲むことは決してない」と言われた。事実、これがイエス生前の最後の食事となった。
 この「パン」は、種なしパンではなく普通のパンを意味する言葉が使われている。聖餐式は「主の晩餐」として教会成立の初期から守られてきたが、年に一回の過越の食事とは全く関係しない、別のものとされてきた。だから聖餐制定は、過越の儀式的食事後に、通常の食事が供され、そこで行われたと考える学者が多い。
 パンを分かち与えるのは、食卓の主人(家長や客人をもてなす主人)の役目であり、同じパンを食することは、「同じ釜の飯を食う」という言葉もあるように、一つの家族や共同体となることを意味する。ただ一つのイエスの犠牲が、イエスを主と信じる者すべてに同じ罪の赦しを得させる。つまり全員が、イエスの贖罪において一つとなるのである。
 杯を回し飲みするのも、同じ意味である。ただ一つのイエスの死が、信じる者全てを罪と死から免れさせる。イエスの血は、信じ受け入れる者達を罪と死の支配から解放する、新しい契約の発効となるからである。ここでパンも葡萄酒も区別なく同じくイエスの死=犠牲を意味する。
 聖餐制定においてイエスは、単に父のご意志に従うだけでなく、ご自分の燃え上がる愛から、みずから進んで犠牲となることを明らかにされた。「(パンを)取りて食せ、この杯から飲め」と命じ、罪人に罪の赦しを得させるためご自分が命を献げたこと(それほどの愛と救いの確かさ)を味わうように、私達に求めて下さったのである。
 イエスの贖罪を受け入れる者は、全員が一つの体(イエスを頭とする共同体)となる。キリスト者はイエスおいて罪に死んでおり、まだ肉の体にあっても、イエスが与える聖霊の力によって生き始める。肉体は滅びても、イエスに結ばれた者として霊において存在する。肉の束縛から解放された主にある死者は、霊に燃え、自分が赦されたように心から他者を赦し、熱く愛し合うであろう。そして、終わりの蘇りの日に兄弟姉妹と共に主を拝することを待っているのである。
 死を目前にしたイエスが、聖餐制定の最後に付け加えられた言葉「父の国であなた方と共に新たに飲むその日まで…」は、この終わりの日の喜びと勝利の祝宴を、ご自分の十字架と復活を超えた果てに見つめ、予告し、その近さを確信する言葉として解釈したい。
 イエスに結ばれたキリスト者の生涯は、イエスと切り離されて別個に評価されはしない。例え徒労や失敗の生涯に見えようとも、イエスが予告されたこの勝利に呑み込まれているのである。
 感謝と喜びを持って主の十字架を見上げ、生きかつ死ぬ者でありたい。