家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

「先生」と呼ばれてはならない。

 

2019年7月14日

テキスト:マタイ伝23:1~12

讃美歌:122&285

                  第5部 エルサレムにおけるイエス(21:1~25:46)
                    A.イエスと敵対者たちとの対決(21:1~24:2)


 前回まで、イエスと敵対者達との論争会話を学んできた。イエスは、罠にかけようとした悪意の質問を打ち破られただけでなく、応答を通して神への心からの信頼と服従を教えられた。そして最後に、キリストは、人間としてユダヤ人が待望する救い主であり、かつそれ以上に全世界の救い主・支配者であり給うことをお示しになり、論争を終わらせになった。
 今回から別の段落にはいる。
4.律法学者とパリサイ人達に対する災いなるかなの演説(21:1~24:2)
 この段落は、難しい。マタイ伝の書かれた状況を理解しないでそのまま読むと、律法学者とパリサイ人に対する不当な評価を鵜吞みにしてしまう。キリスト教国・キリスト者にとって現在でも「律法学者・パリサイ人」が「偽善者」の代名詞であり、ユダヤ人大虐殺に結びつくユダヤ人差別・蔑視の一因になったことを反省すべきである。
 実際には、「神のことについて誰よりも熱心であった」パリサイ人サウロや、律法学者ガマリエルのように、人間として尊敬すべき真面目な人たちが存在した。また、律法学者たちもイエス同様に、律法を愛の二重の戒めに総括する考え方をした。律法を一点一画までも守り行い、また愛の二重の戒め(神への愛と隣人愛)に総括することにおいて、「律法学者・パリサイ人」は、イエスご自身やマタイの教会と非常に近い関係にあった。
 ただ、イスラエルの多数派とマタイの教会は、イエスをキリストと信じるか否かで大きく異なる。イエスこそキリストであり、全イスラエルはこれを認め服従すべきと信じたユダヤキリスト者は、パリサイ派などのイスラエル多数派から迫害を受け、分離せざるを得なくなった。マタイの教会にとって、イエスを信じないイスラエル多数派(律法学者とパリサイ人は、厳密には区別されるが、マタイの教会はキリスト者を迫害する者たちとして一緒くたにまとめてしまった)は、福音宣教を妨害し人を天国から締め出す者達としか見えなかったのである。
 現在の私達も、マタイの教会同様、異教や無信仰の環境の中に生活している。異教徒や無信仰者に対し「善きサマリア人」でありつつ、同時に確固たるキリスト者としてキリスト教信仰を保ち宣教を為し得るか、両面の戦いに直面していることをしっかりと自覚したい。
4.1 偽善と肩書・名誉欲に反対して(23:1~12)
 イエスは、(敵対者たちではなく)弟子たちとイエスに好意的な民衆に、今日読んだ箇所を語られた。内容をまとめると以下のようになる。
①律法の権威を重んじ、正しい解釈に従って守り行え。
 「モーセの椅子」とは、シナゴーグで律法を納めた櫃の傍らに設置された肘掛け椅子であり、律法説教の座とされた。律法の権威に従い学者の正しい解釈を聴いて、律法遵守すべきである。
 しかし、律法を満たすのは正しい「信仰」と愛の業によってである。キリスト教信仰なき学者とパリサイ人が実行し、人に実行させようしている業は空虚な形式に過ぎず、結果的には自己満足や単なる重荷になっている。またそれらを超えて、名誉欲からの見せびらかしの業となっている。
②名誉と肩書を欲してはならない。
 キリスト者を迫害した学者とパリサイ人のように、宗教的に権威ある人間として「ラビ・先生」と呼ばれ、尊敬を受けてはならない。「先生」はただ一人(イエス)であり、その他の人間はみな平等の「兄弟姉妹」だからである。同様に、地上では誰も「(教への)父」、また「指導者」と呼ばれてはならない。「父」はただ、天の父=神お一人であり、「指導者」はキリストお一人だけだからである。
③最も大いなる者は、人に仕える(奉仕する)者である。
 高ぶる者は低められ、へりくだる者は高められる。

 ①について。私達自身は、祭儀や浄めなどの律法規定はもはや時代遅れと感じる。だが、十分の一税にかわる教会維持のための献金や、祭儀に代わる礼拝や聖礼典の厳守などの戒めを、どの程度真剣に守り行おうとしているだろうか。他方、イスラム教徒や神道等の異教の清浄規定や祈祷の習慣をどの程度尊重し、寛容に受け入れているだろうか。日本のような異教的環境の中で、七五三や年忌法要等の生活習慣になじみ、キリスト教信仰がただ「心の中でのみ」の事柄になってはいないか。「娶り、嫁ぎ、稼ぎ」の生活雑事に埋没し、何よりも大切な神との永遠の関係をおろそかにしてはいないか。生涯の終わりに、私達は神の前に立つのだということを、忘れてはならない。
 ②について。これは現在の教会にとって深刻な問題である。カトリックの階級制度、プロテスタント国教会の教職制度などは、よその問題としても、日本の現在の教会においても、牧師や教職訓練を受けた者と、平信徒の区別は歴然としている。牧師等教職者は一方的に信徒のお世話係であり、その対価として信徒からの尊重や献金をうける。信徒はいわば教職者の顧客であり、信徒が説教したり信徒の家庭訪問をしたりすれば、時には教職者とトラブルとなったりする。現実には、教職者等は名誉や報酬を受けなくても奉仕を為そうとし、その結果、疲れ果て、信徒側は、自分一個の安心立命を求めるのみで宣教と奉仕への使命感に欠け、その結果、信仰的成長が不十分となる。双方が不健全である。そうではなく、ただ一人の教師(ラビ)キリスト・イエスに倣い、ただ一人の天の父をもつ平等の「兄弟姉妹」として、互いに励まし愛し敬い合うべきである。「教会」は「体制」ではない。イエス・キリストというただ一人の牧者に導かれる個々の人間の集いが教会ではないだろうか。キリスト者はすべて教職・信徒、性別、民族の区別なく互いに訓戒し合い、愛し合う義務を負う「仲間」なのである。
 ③について。これは、ゼベダイ兄弟のエピソードでもイエスが語られた言葉である。ではどうしたら、「我こそは」ではなく「人に仕える」へりくだった者になりうるのだろう。人間性には不可能なことである。ルターは「ちょっと人より容姿がよいだけでも」自分を他人より優れた者と考えたがると指摘している。その通りである。
 ただ主イエス・キリストを見上げることによってのみである。神の御子でありながら、ガリラヤの庶民と生まれ、枕するところなく放浪しつつ、罪人の友となり、貧しい者を憐れみ、病人・身障者を癒し、十字架に死に、復活された方、をひたすら見上げ愛すること、ただそれによってのみ、これらすべての咎から救い出され、「勝ち得てあまりある」者とされる。
 「主イエスを信じなさい、そうすれば、あなたも家族も救われます」(行伝16:31)とある。自力変革ではない。イエス・キリスのみが私達を浄め新しい人間へと生まれ変わらせてくださる。ひとえに十字架を見上げようではないか。