家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

神への愛と隣人愛

 

2019年6月23日

テキスト:マタイ伝22:34~46

讃美歌:82&124

                  第5部 エルサレムにおけるイエス(21:1~25:46)
                    A.イエスと敵対者たちとの対決(21:1~24:2)

3.エルサレムでの論争会話(22:15~46)
 前回は、敵対者達が罠にかけようと問いかけた二つの質問に応じてイエスが語られた言葉、①「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」と、②「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」を引用して「神は死者の神ではなく、生ける者の神だからである」と言われたことを学んだ。私達の認識を遥かに超える、神の聖者・神の御子としての言葉に、当時の民衆と共に私達自身も驚嘆し沈黙させられた。全宇宙の創造者であり、人の心の中をも見たもう神に、単に現世的・政治的に仕えるだけでなく、私達の全心・全霊を尽くして仕えねばならないこと、また、命の源である神との契約の絆によって死者さえも命へと移されていることを教えられた。
 今回は、敵対者達との論争の締めくくりである。
3.3 大きな戒め
 サドカイ人達を(死人の復活論争において)黙らせてしまったと聞いたパリサイ人達は、同じ場所に集合した。サドカイ派を沈黙させたことは、復活を信じる彼らに共感を呼び起こしたことであろう。一種の畏敬の念が生じたことと思う。彼らのうちの律法に通じた者がイエスに質問した。「律法の中で、どの戒めが大きい戒めなのでしょう?」。律法の戒めは日常生活の細かいことから総括的な大きい戒めまでいろいろある。例えば衣の四隅に房をつけるといったことから、シェマー(神を愛すべきこと)まであり、どの戒めも大切に守るべきであるが、戒めに序列をつけ整理することが行われていた。マタイ伝では、イエスを試みようとしてとなっているが、他の福音書の平行記事では、イエスが質問し、それに答える形で律法学者が言ったことになっている。だから、必ずしも悪意の質問ではなかったかもしれない。
 ここではイエスご自身が、申命記6:5「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛さねばならない」を序列第一の戒めとされ、序列第二の戒めも「それと同様である」としてレビ記19:18「隣人を自分自身のように愛すべきである」を挙げられた。これら二つの戒めの具体的適用と応用が、その他の戒めと預言書つまり律法全体であるといわれた。
 「神への愛」と「隣人愛」の二重の愛の戒めを律法全体を総括するものとみることについて、ユダヤ教キリスト教もほぼ同じである。ただし、ユダヤ教は「隣人」を同胞・ユダヤ教徒とその中の寄留の異邦人と狭く限定する傾向にあるのに対し、キリスト教は愛敵の教えなどから普遍的全人類へと拡大し、徹底化して解釈する違いがある。
 では、五感で把握できない神を愛するとは、具体的にはどんなことか。まず、知らないものを愛することはできないから、神を認識することから始まる。私たちは自然の美や威力・神秘の中に、何かしら偉大な存在を感じる時がある。だが、それは人間が主体として客体を認識の対象としているだけである。しかし聖書の神は、被造物の中にご自分を示されるだけでなく、人間に語りかけて人間をご自分の相手(第二者)とされる神である。ヘブル書1:1「神は多くのかたちで、多くの仕方で先祖たちにおかたりになったが、…」とある。心を持たない花や自然を愛することもできるが、人を愛して愛し返されることはまた別格の喜びである。神は人間をそのような相手とされた。そして最後に私たち人間の一人となって、イエス・キリストによってご自分を示された。この神の愛を知って喜び感謝と愛を返すことが信仰であり、その命令・戒めに従う具体的行動になる。これが「神への愛」である。
 これに対して「隣人愛」は、善きサマリア人の譬えのように、比較的わかりやすい。だが、敵をも愛する精神は、悪くすると隣人愛を焦点のぼけた一般的なヒューマニズム(人間愛)に解消してしまう恐れがある。また、「自分自身のように」愛するということで、我欲を含めた自己愛を肯定する可能性がある。「自分自身」とは、神の善き創造の意図における自分であり、神が望み欲し給う存在としての自己であって、神に逆らう(自分の内なる)悪・罪への憎しみと表裏一体となった愛でなければならない。単なる自己愛では、自分の襟首をつかんで持ち上げようとするように、隣人愛への力点になりえない。神はご自分に背く人間を追い求め、主イエスの贖いによって、義と聖へと召してくださった。神が私達を愛してくださった愛ゆえに、自分と他者を愛すべきなのである。パウロは、同胞ユダヤ人が救われるためなら、自分がキリストから切り離され呪われることさえ厭わないと語った。そこには、利己心の片鱗もない。なぜなら、「キリスト・イエスにおける神の愛」に引き入れられ、御自分を与える(献身する)神の愛と一体となっているからである。だから、まず独り子を惜しまず人間を愛してくださった神を愛し、神へ愛のゆえに、正しい仕方で自分を含めた被造物を、愛すべきなのである。第二の戒め「隣人愛」が、第一の戒めである「神への愛」と「同じである」とは、その意味、つまり「神への愛」と「隣人愛」の関係を示していると解釈すべきである。人間の愛の根源は、神からの愛なのである。
3.4 ダビデの子たる身分
 今まで、質問を受ける側だったイエスは、今度はご自分からパリサイ人達に質問された。「キリストは、だれの子なのか?」。マタイ伝の読者は、キリスト=イエスユダヤ人のメシアである人間「ダビデの子」であり、同時に神の独り子としての神、全世界の審判者・支配者である救い主であることを知っている。だが、パリサイ人達はそれを知らない。単にキリストをユダヤ人の王的メシアとして「ダビデの子です」と答えた。イエスは、それならばなぜ詩篇110篇でダビデ自身がメシアを「わが主」と呼んでいるのかと彼らに問われた。自分の子孫を「自分の主人である神」と呼ぶはずがないからである。パリサイ人達は、(わからないから)一言も返事ができなかった。その日から、もはや進んでイエスに質問する者は誰もいなくなった。
 イエスは、単に敵対者達を論駁されたのではない。その応答において、御自分が神的メシアであることをお示しになった。しかし、それを認識できるのはただ信仰によってであって、理性ではない。従って、イエスを信じない敵対者達はこれを理解できなかった。もはや、神の前での決着があるのみである。
 これらのことが記されたのは、敵対者達を非難するためではない。現在の私達を含めたマタイ伝読者に、イエスが人間としてユダヤ人の王的メシアであるだけでなく、人間に近づき来たり給うた神であることを知らしめるためである。復活のイエスが御傷を示された時、弟子トマスはこれを悟り「わが主よ、わが神よ」と叫んでひれ伏した。私達も、イエスこそ「わが主、わが神」であると告白し、彼の御支配に服する者でありたい。