家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

悔い改めにふさわしい実を結ぶ民族

 

2019年5月12日

テキスト:マタイ伝21:23~46

讃美歌:294&385

                  第5部 エルサレムにおけるイエス(21:1~25:46)
                    A.イエスと敵対者たちとの対決(21:1~24:2)
 前回は、エルサレム神殿での宮浄めと、翌朝エルサレム途上でのイチジクの木への呪いを取り上げた。今回は、神殿での敵対者との対決を取り上げる。
2.エルサレムにおける第二日目ー敵対者との論争的譬え(21:18~22:14)
2.2 洗礼者ヨハネへの態度(21:23~32) 
 二日目の早朝、イチジクの木を呪われ、メシアを受け入れようとしないエルサレム住民、特に宗教的指導者層への裁きを警告されたことは、前回の通りである。さて、いよいよ神殿にお入りになり、民衆に説教をしておられると、祭司長や民の長老達(サドカイ人)がやってきて、何の権威を持ってこれらのこと(宮浄めや説教)を為すのかとイエスを詰問した。神殿での信仰(イスラエルの正統的信仰)の権威は、自分たちが掌握しており、(自分たちが認可を与えていない)イエスのような自発的信仰覚醒運動を認めまいとしたのである。イエスは、彼らに反問された「では、ヨハネの洗礼は(その権威は)どこからのものか。天からか、人からか。それに答えるなら、私も何の権威を持って行動するか答えよう」。
 祭司長らは、イエスを問いただしたことによって、かえって自分たちが問いただされる立場になってしまった。もし、洗礼者ヨハネの権威が天からのものだといえば、「では、なぜヨハネの悔い改めの洗礼を受けなかったか」といわれるだろう。また、人間の権威だといってしまえば、洗礼者ヨハネの権威を天からのものと信じている民衆の反発を受けることになる。答えに窮し「わかりません」といい、自分たちの偽善的正体を明らかにしてしまった。
 イエスは続けて彼らに次の譬えを語って、問われた。「葡萄園の主人に二人の息子がいた。一人に葡萄園で働けというと、いやですといった。だが、後で後悔して葡萄園に行きそこで働いた。もう一人は『かしこまりました』と恭しく答えたが、結局いかなかった。さて、どちらが父の意志を行っただろうか?」。当然、彼らは「最初の息子だ」と答えた。
 イエスは、彼らに言われた。「徴税人や娼婦(罪人達)は、お前達(サドカイ人ら)よりも先に神の国に入るだろう。彼らは、(律法に従わない者であったが)ヨハネが義の道を示すと信じて悔い改めたから。だが、お前達はそれを見ても悔い改めようとはしなかった」。
2.3 葡萄園と小作人の譬え(21:33~45)
 イエスはさらに続けて彼らにもう一つの譬えを語られた。「ある人が大規模葡萄園を造り、小作に出して旅に出た。収穫の時期が近づいたので、小作料を受け取るために僕を派遣した。だが小作人らは派遣された僕をとらえて袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で撃ち殺した。そこで、主人は、自分の息子なら尊重されるだろうと息子を派遣した。ところが、小作人らはこの跡取りを撃ち殺し、相続権を自分たちのものにしようと、彼を葡萄園から引きづり出して殺害してしまった。さて、葡萄園の主人はこの小作人達をどうするであろうか?」。彼らは、「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、葡萄園を季節ごとに収穫を納める他の農夫らに貸し出すだろう」といった。
 旧約聖書では、イスラエルは「神が植えた葡萄の木」にたとえられている。葡萄園とはイスラエルであり、小作人イスラエルの民・指導者を指すことはユダヤ人ならすぐわかった。イスラエルは神の憐れみと恩恵を受けた葡萄園であり、(従順の実の)収穫を受け取るために派遣された僕達とは、神の預言者達である。ところが、イスラエルの歴史は、神が派遣した預言者達を迫害し、殺害し、石撃ちにしてきた。最後に、神の「息子」イエスご自身を、エルサレムの外ゴルゴダの丘に引きづりだして、殺害した。福音書の読者はこの歴史的事実を知っている。厳密には、イエスを殺害したのはローマ人であり、サドカイ人の関与もあった。だが、パリサイ人はイエス殺害に関わったとはいえない。しかし、パリサイ派と闘争していたマタイの教会は、イスラエル全体を「悪しき小作人」と見たのである。
 この譬えをイエスご自身が語られたとすれば、イエスはご自分を神の「息子」としてはっきりと語られたことになる。
 この譬えの結論「悪しき小作人への裁き」は、そのまま、ユダヤ人(イスラエル)への裁きの警告である。イスラエルに捨てられた「隅の頭石=キリスト」は神の家の土台となる。そして、神の憐れみと恩恵は「義の実を結ぶ」民族へと移される。メシアの出現は、神の憐れみと恵みの歴史を誇る(肉による)イスラエルを打ち砕き、真に悔い改めて「義の実」を結ぶ民族に神の恩恵が注がれるであろう。その新しい民族を、そのまま目に見えるキリスト者や教会とすることはできない。愛と義の「実を結ぶ」ことが条件である。ユダヤ人を迫害し、自分こそ「神の民=真のイスラエル」であると思い上がるならば、キリスト教会もかつてのイスラエルと同じ裁きを受けるであろう。真に悔い改め、ユダヤ人も異邦人もなく、聖霊による新しい命に生きようとする者、愛と義の「実を結ぶ」者達のみが「新しいイスラエル」なのである。昔、預言者エリアが、イスラエルで神を信じる者は自分一人になってしまったと嘆いた時、神はご自分のために「バアルに膝をかがめぬ7千人」を残したと語られた。そのように、「真のイスラエル」は、目に見えるのではなく「隠されて」存在する。私達は、洗礼を受けたからといって安心しきるのではなく、恐れおののいて絶えず悔い改め、(洗礼者ヨハネが語ったように)「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」(マタイ3:8)ことを追い求めねばならない。
 祭司長やパリサイ人(=マタイの教会にとって、自分たちを迫害するユダヤ教指導者層)は、この譬えが、自分たちへの裁きの言葉であると悟り、イエスを逮捕しようとした。だが、イエス預言者と信じている民衆をおそれ、その時点では実行することができなかった。