家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

宮浄め、イチジクの木への呪い

 

2019年4月28日

テキスト:マタイ伝21:12~22

讃美歌:90&348

                  第5部 エルサレムにおけるイエス(21:1~25:46)
                    A.イエスと敵対者たちとの間の決着(21:1~24:2)

 前回は、エルサレム入城前後の出来事、エリコ周辺の二人の盲人の癒しと、子ロバに乗ってのエルサレム入城までを取り上げた。今回は、それ以後第2日目早朝までを取り上げたい。

1.エルサレム神殿にて(21:11~17)
 イエスが小ロバに乗ってエルサレム入城される際、エルサレムの人々は「これは、どういう人か」といって騒いだ。「騒いだ」とは、単に噂が炎上したというだけではない。群れの動物が敵の襲来に警戒の叫びを上げるように、新来者を警戒し身構える意味がある。イエス誕生の時にも、東方の博士らがメシア誕生の知らせをもたらすと、エルサレムの住民は喜びではなく不安を感じた。今度もそのように、何らか変化をもたらす者の登場に警戒したのである。一方イエスは、騎乗しての入城に示されたように、エルサレムでは(鉄の杖をもって裁きを行う)王的メシアとして行動される。
 イエス一行が神殿に入っていくと、「異邦人の庭」とよばれる広い境内で門前町よろしく盛んに商売が為されていた。世俗流通貨幣を神殿貨幣シケルに両替する者、犠牲獣(牛や羊、鳩など)を販売する者。いずれもその売り上げから多数の手数料が祭司長らサドカイ人に納入され、彼らの収入源になっていた。イエスは商売人らを追い出し、台や腰掛けを覆し、いわゆる「宮浄め」を行われた。神殿警備隊やローマ警察が出動しなかったところから見て、それほどの大騒動ではなかったようだが、いままでの「柔和な」イエスからは予想もつかない実力行使である。一方、今まで通り「憐れみ深いメシア」として境内の身障者らを癒された。癒された者およびこれを目撃した人々があげる感謝と神賛美の声が響き渡り、子供らまで「ダビデの子(王的メシア)、万歳」と叫んだ。これを聞いて、祭司長と律法学者達(イエスの二重の敵=宗教貴族階級および民衆的宗教指導者層)は憤り、自分を王的メシアと呼ばせるとは何事だ!とイエスにいった。イエスは、詩編8編を引用し、これに応えられた。幼児や乳飲み子の口に賛美を授ける神は、「人の子」(イエスはご自分をそう称された)に被造物支配の権威をお授けになったとある。イエスは、もはや神的メシアであることを隠そうとはされず、敵対者との対立を明らかにされた。そして緊張が高まる中、エルサレムを出てベタニア村(マルタ・マリア・ラザロらの家があった)に行かれ、そこにお泊まりになった。
1.イチジクの木への呪い(21:18~22)
 翌日早朝、エルサレムに戻る途中の出来事である。イエスは空腹を覚え、道ばたのイチジクの木に実を探された。だが、時期ではないので何も見つけられなかった。そこでイエスは「今から後、おまえに実がならないように」とその木を呪われると、たちまち枯れてしまった。弟子達が驚くと「信じて祈れば、このように必ず聞き届けられる」といわれた。
 これは、イチジクの木への八つ当たりではない。エレミアが帯を腐らせて預言したような、象徴行動であり、私達に何かを伝えているのである。では何を語っているのだろうか?他者への呪いが「信じて祈れば」必ず聞き届けられるというのでは、あまり福音的でない。
 そうではなくこの呪いは、メシア登場を歓迎しようとしないエルサレム住民、なかんずく宗教的指導者層への審判と裁きの預言なのである。
 宗教的貴族である祭司長らサドカイ人達は、身分からくる尊敬と富裕さを享受していた。民衆的宗教指導者である律法学者らパリサイ人も、自らの宗教的「熱心」を誇っていた。両者とも、それなりに自分の現状に満足しており、エリコ周辺のあの二人の盲人のように追い詰められた絶望の淵に救いを待ち望んではいなかったのである。苦しみと悩みを抱えた善男善女が押し寄せ、神殿やシナゴーグが栄えればよく、正義と公平と愛が支配する世(天国)を到来させる「メシア」登場など、本気で願っていなかった。メシアは、自分たちの満足が崩壊する時に、機械仕掛けの神よろしく登場する、こちらの期待通りの存在であえばよかったのである。メシア・イエスエルサレムに入城すれば身構え、求められてもその時期ではないからと実を提供しなかったあのイチジクの木のように、招集に応じようとはしなかった。これでは、神の審きを免れることはできない。現実に、エルサレム神殿は崩壊しユダヤ人は全世界に散らされてしまった。
 これは当時のユダヤ人だけの話ではない。私たち自身のキリスト教信仰も自己本位の満足しきったものになっていないだろうか?キリスト者は、個人としてアヘンのような信仰によって人生を耐え抜き、敬虔な生涯を送って天国に行きさえすれば満足なのではない。自分を忘れ、主の祈りの「御国を来たらせ給え」を本気で祈り、御国=神の支配を渇仰すべきではないのか。だが、私たちはどうしても自分や身近な者のためにしか真剣に祈れない。正義と平和と愛が支配する神の国が地上に到来することなど、本気で祈れないのである。ただ神ご自身と、メシア・イエスだけが、それを真剣に願い、また成し遂げてくださった。ただ、聖霊だけが私たちに「御国を来たらせ給え」との祈りをお与えくださる。
 イエスはこういう自己本位の全人類の罪を、ただ一人十字架に担われた。そして復活によって、神の国を打ち開かれた。人間イエスが今や神の右に座し、神と人が共に住む御国が既に始まっている。もはや、ユダヤ人も異邦人もなく、全世界の人間が、神を父としイエスを主とする兄弟姉妹となった。注がれた聖霊によって私たちも、もはや自分自身から解放され、ただ神の喜びのために、全世界の兄弟姉妹と共に、御国の到来を心から祈ることができる。そしてイエスご自身の祈りである「御国を来たらせ給え」を、イエスと共に祈ることができる。これこそ、「信じて祈るならば、必ず聞き届けられる」喜ばしい祈りではないだろうか。御国の民として、この地上に永遠の御国が到来すること、すなわち主の来臨(再臨)を渇仰する希望と確信をもって祈れるのである。
 この世がいつまでも続くのではない。私達の生涯が過ぎ去るように、やがて過ぎ去るのである。イースターを季節毎に繰り返される単なるお祭りとするのではなく、神の国の到来を切に祈り求める機会としたい。