家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

二人の盲人達

 

2019年4月7日

テキスト:マタイ伝20:29~21:11

讃美歌:308&304

                  第4部 教会におけるイエスの活動(16:21~20:34)
                    C.エルサレムへの途上で(19:1~20:34)

 前回3月17日以来、間が空いてしまった。いよいよ、この福音書のピークというべき受難物語に入ろうとしている。生涯聖書を読み続ける私たちは、主のご行跡を単に過去の出来事としてではなく、現在の自分に語りかけている福音(メッセージ)として注意深く読んでいきたい。同時に、主の地上での御生涯と御業を絶えず生き生きと思い起こすことができるようでありたい。
 イエスは、イスラエルの町や村を巡り歩かれた後、首都エルサレムに向かってガリラヤを出て徒歩の旅を開始された。いよいよメシアとしての業を完成させ、御国をお建てになるおつもりではないかと、弟子達は期待した。イエスが、何度かご自分の苦難と死を予告されたにもかかわらず、晴れがましいその日に自分たちはイエスの近衛と認められたいというのがゼベダイ兄弟だけでなく弟子達一同の願いであった。また、弟子達だけではなく一般民衆にもメシアが御国をお建てになり、異民族支配からの解放を期待する雰囲気が高まっていた。
 途中、離婚問題でパリサイ人に問いかけられたり、子供たちを祝福したり、富める青年と出会ったり、葡萄園の労働者の譬えで天国は神の恩寵そのものであることを示されたりしてきた。いよいよ目的地エルサレムが近づいた。今日は、エルサレム入城第一日目を取り上げる。
7.二人の盲人(20:29~34)
 イエス一行が、エルサレムにほど近い隣町ともいうべきエリコの町を出て行くと、メシアを期待する大勢の群衆が後に従った。道沿いに二人の盲人が物乞いをしていた。彼らはイエスがお通りになると聞いて、大声で「主よ、ダビデの子よ、私達を憐れんでください(キリエ・エレイゾン)!」と叫びだした。群衆がおとなしくさせようとしかりつけても止めず、ますます必死に願い続けた。イエスはこの騒ぎを聞いて立ち止まり、彼らを呼んで「何をして欲しいのか?」と尋ねられた。彼らは言下に「見えるようになること!」と答えると、イエスは深く憐れみ、彼らの目を手で触れられた。すると、直ちに見えるようになった。彼らは、群衆と共にイエスに従って行った。
 数ある盲人の癒し奇跡の中でも、この盲人達は特に私達の共感を呼ぶ。私達は、人生の闇の中でさまよっている。暗闇のなかになんとか光を見いだそうとしている。だが、この盲人達は、光を与えるお方(メシア=盲人の目を開くお方)がそばを通り過ぎようとしていることを聞いたのだ。彼らは叫びだした。このお方が自分たちを通り過ぎたならば、もう二度と機会はない。施しに頼る絶望の状況から助けだされるために、あたり構わず大声で叫びだし、イエスに助けを求めた。「主よ、憐れみ給え(キリエ・エレイゾン)」と。それは、人間が絶望の底から神に叫ぶ言葉である。私達も、戦禍や子供の虐待死のニュース等を聞いた等、自分や人間に絶望して、思わずでる言葉である。この切実さが、私達の胸を打つ。
 イエスは立ち止まってくださった。そして具体的な願いを尋ねられ、二人の目に直接触れて彼らを救われた。彼らは助け出されて、イエスに従う群衆(教会)の群れの中に加わった。

 イエスは人間のメシア(救い主)である。彼以外に救いはない。イエスに向かって、私達もなりふり構わず叫ばねばならない。彼は理念やイデアではない。今も生ける一人の人間として私達のそばに居給う。彼に呼びかけ、私達に目を止めていただき、具体的に自分の窮状を訴えて、助けを願わねばならない。そうしてはじめて彼は、私達をその困難から助け出してくださるであろう。マグダラのマリアは悪霊から、盲人達は盲目から、パスカルの妹は死病から、具体的に救い出された。そして、イエスに従う者となった。
 天国=神の民となることが、因果応報の業の報酬ではなく、神の純粋な好意と施しであるなら、イエスが他人ではなく、私達の主であるなら、イエスに通り過ぎられないよう、絶えず呼びかけ、具体的に自分の求めを願わねばならない。「主よ、あなたの者である私の人生がここにあります。私の人生の出来事を、あなたのものとしてください。どうか、この困難から助け出して、私を感謝と賛美で満たしてください」と、日々事ごとに祈らねばならない。イエスが私達に目をとめ、顧み、その困難から助けだしてくださってはじめて、私達は彼に感謝し、彼に従う者とされる。神を知るとは、神の恵みを体験することだからである。
 こうして、イエスエルサレム城外オリブ山ちかくのベトファゲ村に着いた。そして、歩いてではなく騎乗して入場するために、ロバの子を召し出された。軍馬のように、人の頭上たかくそびえて王侯然として入場するのではなく、背の低いロバの子にまたがり地面に足を引きずるような庶民のような姿で、入場されたのであった。ロバが重い荷を運ぶように、ご自分の民を担う王=メシアであるからである。イザヤが言うとおり、偶像は人間に担われるが、神はご自分の民を担われるのである。しかし、民衆は道筋に自分の衣を引き、「ダビデの子に、ホザンナ!」と叫びながら、一行の前後を囲んで進んだ。
 エルサレムに入城されると、「いったいこれは、どういうお方か」と都中の人が騒ぎ出した。イエスに従う群衆は「ガリラヤのナザレ出身の預言者エスだ」とそれに応えた。こうして、イエスは民衆の期待が高まる中、エルサレムに入って行かれた。
 その日の出来事の続きは、次回としたい。