家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

イエスと子供、富める青年

2019年2月17日

テキスト:マタイ伝19:13~30

讃美歌:243&7

 

                  第4部 教会におけるイエスの活動(16:21~20:34)
                    C.エルサレムへの途上で(19:1~20:34)
 前回は、離婚禁止と結婚の断念について語られた。イエスはこれらの言葉を、あくまでも弟子達が自由に選び取る自発的な勧めとして語られており、強制的命令とされておられないことに注意しよう。今回もその続きである。
2.イエスと子供達(19:13~15)
 その地の人々が、イエスに祝福していただくために子供達を御許に連れてきた。弟子達は、イエスを煩わせてはならないと彼らをたしなめた。ところが、イエスは弟子達を叱責し、「幼子らが我が下にくるままにせよ。天国はこのような者の国である」といわれて、子供達を祝福し、その地を去っていかれた。
 庇護と導きを必要とする「子供のような者」を、主は慈しみ「天国はこのような者の国」といわれた。どんなに年齢を重ねても私達は、神の前に「子供」として存在する。祈りのときに「天のお父様」と呼びかけ、心にある様々な願いや思い煩いを打ち明けて助けと導きを乞い求めるのである。父なる神、また幼児を慈しみ給た主を心からお慕いし感謝する。
 神の御前に、老人から子供まで全く同じ「神の子供」同士なのであるから、できれば大人と子供が一緒に礼拝することも考えたい。主が「幼子らを我が下にくるままにせよ」と、弟子を叱責されたのなら、説教を理解できないと子供を礼拝から遠ざけ区別することを主はどう見ておられるだろう。老人から子供まで、「子供」として神の御前にひざまずく礼拝でありたい。
3.イエスと富める青年(19:16~30)
 ある人がイエスに近づいて尋ねた「永遠の命を得るために、どんな善行を為すべきでしょうか」。イエスが、神の律法をお示しになると、彼はその内どれが最も大切かと重ねて尋ねた。本来、律法は神と隣人への愛に集約され、ばらばらの戒律の集積ではないけれども、イエスはあえてそれをいわずに十戒の第2表と愛の戒めを示された。この青年(この人は成熟前とみなされる三十歳未満の若者であった)は、それらは以前から守ってきたと答え、それ以上に何か為すべきだろうかと尋ねた。イエスは、もし完全になりたいなら(成熟したいなら)、財産を売り払って施し、無一物になって私に従ってきなさいと言われた。この青年にはたくさんの財産があったのでそれを放棄できず、嘆きながら立ち去った。
 この青年は、なかなかの好青年であった。彼は律法を良心的に守り、さらにそれ以上に神の国を求めようとしたのである。だが、律法はそれを標準的に守るだけでなく、完全に成し遂げるためには次の3点が求められた。①律法を神と隣人への無制限の愛の要求と理解すること、②そして、それを自分においてラディカルに表現する一切の所有物を施す(放棄する)こと、③最後に、それらすべての目的として、イエスに随伴していくこと、であった。
 わずかな資産しかもたず、苦境の中にいたのであれば、イエスの弟子達のように一切を放棄して従って行けたかもしれない。だが、彼は現在の快適な生活の範囲内で可能なこと(良心的生活)をしたかったのであり、イエスに従うために一切を放棄することまではできなかった。人は、神と富に兼ね仕えることはできない。この青年の嘆きは、神よりも富に仕える自分の姿があらわになったことからくる。
 イエスは、弟子たちに「富んでいる者が天国に入るのは難しい。ラクダが針の穴を通るほうがもっと容易だ」と語られた。それを聞いて弟子たちが驚愕すると「人にはできないが、神には可能だ」と言われた。
 私達はこの青年を軽蔑することはできない。この青年に求められた所有物の放棄は、たやすいことではなかった。この世は富が支配している。いかに少々の生活費に私達は縛られていることだろう。それができるのは、命はただ神からくることを心底知る者、すなわちアシッジのフランシスのような、神から照明(示し)を受けた者のみである。キリスト者全員がそれをできるのではない。だが、そのような人の存在が、いかにキリスト者の本来あるべき姿を示し、私達を鼓舞することであろう。
 だが、何より肝心なこと、またキリスト者全員に命じられていることは、③のイエスへの信従である。「子供のような」未熟な自分のままに、小信仰の自分であるままに、イエスに信頼し、神に頼ることである。貧しくまたは富み、あるいは幸不幸の境遇のまま、自分の身を主にゆだねる時、神の力が私達に働く。自分では為しえないことを、不思議にも為し得るのである。「人にはできないが、神にはなんでもできないことはない」と主は言われた。
 では、アシッジのフランシスや弟子達のような、一切を放棄してイエスに従った者達の報いは、他の者と比較していかがであろうか。十二弟子は、終わりの日にイエスと共にイスラエルの十二部族を裁く審判の座につく、またイエスに従うために、家・家族・財産を捨てた者は、幾百倍もの報いと、永遠の命を受け継ぐ、しかし、多く先の者は後になり、後の者は先になるであろう、とイエスは言われた。
 思えば、財産や家族だけでなく私たちの肉体も精神も神のものである。神のものを神に返すのは当然である。キリスト者の報いは、ただ神ご自身である。私達の人生の勝利は、神のものとなり神を我が神となすこと、すなわち神を勝ち得ることである。十タラントを儲けた者も、五タラントを儲けた者も、同じく「汝の神の喜びに入れ」といわれた。「神の喜びに入る」という報いに、優劣や大小はありうるだろうか。一切を放棄して主に従ったといっても、それは元々神のものであり、「火から焼け残った」ようにして救われた者と、受ける喜びは同じではないだろうか。富める青年の話から、自分自身および自分に属する価値あるものすべては神のものであることを、もう一度深く思いたい。