家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

謙遜と連帯

2018年12月16日

テキスト:マタイ伝18:1~20

讃美歌: 306&191

                  第4部 教会におけるイエスの活動(16:21~20:34)
                    B.共同体生活についての演説(18:1~35)
 前回までイエスによって特別の者とされた弟子たちの、イエスについての体験が語られた。今度は弟子(キリスト者)同士のお互いの関係について語られる。マタイの教会は、ユダヤ教共同体から締め出され、異邦の地にあって、異邦人に対し福音宣教を為そうとしているユダヤキリスト者たちであった。地域社会の中では特別なセクト集団とみられたことであろう。民族や文化を同じくするというつながりではなく、一定の信仰を同じくするというつながり(信仰共同体=教会)である。人間にとって、どの共同体に所属するかは、自分の生活やアイデンティティを決める重大事項である。古代に限らず、現代までどの民族に属するかや、文化が、人間を決める事柄であり続けた。「ドイツ民族は!」とか「日本人として」とか、偏狭な所属意識がいまだに幅を利かせている。従って、「もはやユダヤ人もギリシャ人もない…」信仰を同じくするキリスト者同士の共同体生活がどうあるべきかは、常に真剣な問いである。キリスト者の共同体(教会)がどうあるべきか、ここから学んでいきたい。
 1.謙遜と小さな者たちとの連帯
a.低さへの方向転換(18:1~5)
 天国ではどのような者が一番偉いのでしょうと、弟子たちがイエスに質問した。偉大な業や信仰とか、霊的な深さとかいう答えを期待した一般的な質問である。ところが、イエスは直接お答えにならず、一人の子供を呼び寄せて彼らの真ん中に立たせ、「よく聞きなさい。心を方向転換させて、この子供のようにならねば天国に入ることはできない」と言われた。

 子供とは、「女・子供」と一塊に言われるように、保護者(父母)の庇護と養育を受けなければ生きることができない依存的な存在である。独立して行動するのではなく、上長(父母)の指導に従わねばならない。では、成人した人物(弟子=キリスト者)が、「子供のようになる」とはどういうことであろうか。保護を受ける相手(神)に対しては、自分が庇護を必要とする依存的な存在であることを認め、相手(神)に聞き従う「へりくだり」であろう。
 神に対し、自分が「子供のような」存在であることを認めると、①まず神が、父母に勝って慈しみ深くあり給うことが見えてくる。神に逆らい自分勝手にさまよい出た人間を追い求め、御子イエスの血をもって贖い、僕としてではなく「子」として受け入れてくださった。
 ②次に、自分以外の他者をも、神がいかに愛し大切にしておられるかが見えてくる。仲間のキリスト者が、たとえ奴隷や野蛮な民族の出身者であろうとも、神が御子の命を賭して贖う価値があるとみなされたのである。だから、その人を自分と対等、あるいはそれ以上の存在として尊重するようになる。パウロはピレモンに、逃亡奴隷オネシモを「もはや奴隷としてではなく、愛する兄弟として」受け入れなさいと命じた(ピレモン16節)。従って、他者に対する尊重と謙遜さが、「子供のようになる」ことである。
b.「躓き」に対する警告(18:6~9)
 神がいかに人間を「子供」として愛し、大切にしておられるかを知り、ご自分に立ち返らせるために、大きな代価を支払われたかを知るならば、他者を罪に陥らせる(躓かせる)ようなことは決してできないだろう。人間は生きる限り、罪の誘惑と戦わねばならない。だが、他者を躓かせる者は、神の激しい怒りを覚悟すべきである。神のいとし子を罪の誘惑に陥れるくらいなら、セメント詰めで溺死させられるほうがましであり、視力で誘惑されるなら、目をえぐり捨てたほうがましである。全力を挙げて、兄弟姉妹と共に、救いに与れるよう努めるねばならない。
c.迷い出た者の探索(18:10~14)
 人間仲間の、「小さい者」を軽んじてはならない。「小さな者」が迷い出たならば、追い求め連れ帰ろうとするのが神の御心である。迷い出なかった99匹よりも失われた1匹の立ち返りを喜ばれる神は、「小さい者」「罪人」が滅びることなく、立ち返って生きることを望んでおられるのである。
 以上、①自分自身を神に対して庇護が必要な「子供のような」者と認めると、②他の人を、敬意をもち大切に接するようになる。なぜなら、神は罪人である自分を追い求めてくださったと同じく、彼らをも大切な庇護すべき「子供」として見ておられるからである。
 だから、天国での優劣を競うのではではなく、キリストを頭とする「一つの体」として互いに仕え合い連帯すべきである。
d.兄弟としての勧告と祈り
 では、仲間のキリスト者が罪を犯しているのに気づいた場合はどうすべきか。まず、二人だけのところで、心を込めて忠告する。聞いてくれたらなら、親友を得ることになる。聞いてくれない場合(大概そうだが)、信頼のおける人を交えて話し合いう。それでもだめなら、共同体(教会)に申し出て、共同体外の人に対するような付き合い方をしなさい(共同体から追放しなさい)。共同体として罪を是認するわけにいかないから。
 破門や断交は愛のない行為に見える。だが、すでに聞いたように、迷い出た者を追い求める神の御心を知るならば、彼を見捨てるのではなく立ち返りを切に祈りつつであろう。
 神の御心にかなった祈り、しかも兄弟姉妹と心を合わせた祈りは必ず聞き届けられる。「二人または三人がわたしの名のもとに集まるところ、わたしもそこにいる」との約束は、教会において実現する。主が居ますところが教会である。
 「二人または三人」というのは、一致の最小限度と解釈する。集う人間の寡多ではなく、主の御名のもと心を合わせる処、主が臨在しておられるのである。私達もささやかな集いであるが、良き羊飼いである主の導きを信じて、これからも歩んでいきたい。