家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

山上の変貌

2018年11月18日
テキスト:マタイ伝17:1~13
讃美歌:  494&495

                第4部 教会におけるイエスの活動(16:21~20:34)
              A.受難への途上における弟子の体験(16:21~17:27)
 この段落は、イエスに従う弟子たちに焦点が置かれている。教会は、彼らに自分自身の姿を見る。イスラエルの中から召し出した弟子たちを、イエスは特別の者として扱い、彼らのイエス体験の上にご自分の教会を建てようと言われた。そしてご自分の道が受難の道であることを示し始められた。それをいさめたペテロを「神のことをおもわないで、人のことをおもっている」と叱責され、そして弟子たちに対し「誰でも私に従ってきたいと思うならば、自分を捨て、自分の十字架を負って、従ってきなさい」、そして「自分の命を私のために失う者はそれを見出す」と言われた。イエスが苦難を通して永遠の命の道を打ち開かれたように、弟子たち(教会=キリスト者)も自分に与えられた苦難や困難を通して永遠の命を見出すように、と困難にある教会を励まされたのである。今回はその続きである。
2.神の子の変貌と人の子の苦難(17:1~13)
 それから6日後、イエスはペテロとゼベダイ兄弟(ヤコブヨハネ)の3人だけをつれて、高い山に登られた。高い山といえば、荒野の誘惑でサタンがイエスを高い山に連れて行き、世界の支配権を与えると申し出たことが思い起こされる。イエスはサタン的な世界支配の道を拒み、神に服従し人に捨てられる受難の道を選ばれたのであった。
 山上で、イエスの姿が光り輝く栄光の姿に変貌し、天的な人物(モーセとエリア=二人とも昇天した)が現れてイエスと語り合う有様を、弟子たちは目撃する。彼らは感動し、ペテロが代表して云った。「ここに留まることは素晴らしいことです。あなた(イエス)とモーセ・エリアのためにそれぞれ小屋を3つ建てましょう(このままここに留まりましょう)」。すると雲が沸き起こり(イエスらを包んで何も見えなくなり)、神の声が響いた。「これは私の愛する子、彼に聞け」。弟子たちは非常に恐れて地に倒れた。するとイエスが近づいてきて、彼らに手で触れ「起き上がりなさい。恐れるな」と言われた。弟子たちが目を上げると、元の姿のイエスただ一人りだけがおられた。
 弟子たちのこの経験、イエスの栄光の姿を見るという体験は、高い山という状況から、非日常的な、特別な神の啓示であることを示している。放浪し、人々の敵意の中に孤立するイエスが、「すべての事を、父から任せられた」(マタイ11:27)神から全権委任された神の子であると、まだ受難も復活も体験しない弟子たちに、あらかじめ啓示されたのである。
 「これは私の愛する子、私の心にかなう者である」はイエスの受洗の時にも響いた同じ言葉だが、今回は「彼に聞き従え」が付加されている。世界支配権を拒み、神の御意思に従って苦難し人に捨てられるイエスにおいて、神が行動しておられるのである。苦難のイエスに聞き従え!山上にこのまま留まるのではなく、地上を歩むイエスの後に従えと、と命じられた。これを聞いた弟子たちは、預言者イザヤのように神顕現時の恐怖に襲われ地に伏せた。
 すると(セラピムではなく)「神の子」ご自身が近づいてこられて、彼らに手を触れ、不安を取り除き、立ち上がらせてくださった。目を開けると、彼らと同じ地上的な姿のイエスであった。
 前回の「自分の十字架を負って、私に従いなさい」とのご命令は、厳しく聞こえる。私達人間は、どうしても侮辱や迫害を受けることを嫌い、栄光にあこがれる。ペテロら弟子たちも、できれば日常に戻らずこのまま山上で恍惚の境地に留まりたかったであろう。だが、「太陽のように輝く」栄光の神の子の姿は私達を畏怖させる。神を見れば死ぬほかない罪の肉の人間なのだ。だから、神ご自身が「罪の肉の姿」で人間となり、到来してくださったのである。馬小屋に生まれ、「枕するところなく」放浪し、人に捨てられて殺される苦難の道を進まれる、彼らが日常的に体験するイエスにおいて、神が行動しておられるのである。イエスの苦難は私達を罪から解放するためであり、その死は私たちに命を与えるためであった。イエスの御傷の中に憩いがあり、その死の中に命がある。栄光に輝く審判者「神の子」として到来する前に、まず人間の罪を担う苦難の「人の子」として、神は私たちの中に到来された。ペテロらを立ち上がらせたように、人間に親しく触れて立ち上がらせて下さる。苦難の「人の子」イエスこそ、やがて栄光の姿で到来する「神の子」に他ならない。
 山を下りながら、イエスはご自分が「復活するまでは」、この体験を人に語ってはならないと弟子たちに言われた。イエスが死に至るまで父に従順な神の子として行動して初めて、彼らに啓示された栄光の神の子が成就するのである。沈黙命令を受けイスラエルとは別格扱いの弟子たちですら、その時まで、本当には理解できない体験であった。
 そして弟子たちは(イエスこそメシアであると確信しつつ)、エリアがメシアの先駆けとしてまず再来するとの預言はどうなったのでしょう、と尋ねた。エリア再来の有無は、イエスがメシアであることに反対するユダヤ人側の攻撃材料になっていた。イエスは厳かに「そのとおりである、エリアはすでに到来した、しかし人々は彼を認めず、好き勝手に扱った、人の子(イエス)も彼らに(同様に)苦しめられるだろう」と、言われた。その時、弟子たちは洗礼者ヨハネのことを語っておられることを理解した。ヨハネが再来のエリアであり、ヨハネの殺害は、イエスの苦難のあらかじめの模倣と予告であったのである。