家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

毒麦の譬の説明、畑の宝と高価な真珠、底引き網

2018年8月26日
テキスト:マタイ伝13:36~52
讃美歌:130&191
 
            第3部 イエスが、イスラエルから退かれたこと(12:1~16:20)
                          B.譬えによる演説(13:1~52)
3.弟子たちへの言説(13:36~52)
 前回まで、(屋外で)湖に浮かべた舟にのって、岸辺に立つ民衆に、譬えで語られた。それはイエスに教えられる弟子たちとは違って、民衆は天国の秘密を悟ることができないからだということが知らされた。今回は場面が家の中に移る。民衆一般と区別された弟子たちへのイエスの教示であり、彼らを通じていっそう直接にキリスト者・教会への語りかけとなっている。
3.1 「毒麦」の譬えの説明(13:36~43)
 イエスは舟を降り、家に入られた。すると弟子たちが御許にきて毒麦の譬えの説明を乞うた。イエスは、民衆に対してよりも直接的に、終末時の審きとご自分の御国を語られた。
 「人の子」イエスが「天国の子ら」の種を蒔く。畑は世界であり、ここに悪魔も「悪人の種」を蒔く。終末時、畑の主人=「人の子」は裁きの天使を遣わして、畑=世界から「躓きとなる者」「不法を行う者」を排除し、毒麦のように火に投じる。世界は、浄められて天国=父の御国とされ、義人は太陽のように輝かされる。
 「天国の子ら」はまだ「種」の状態だということに注意したい。「義の実」を結んでこそ「天国の子ら」に成るのである。畑に播かれた種の譬えを思い起こそう。パウロは「既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけではありません。何とかしてとらえようと努めているのです」(ピリピ3:12)と語っている。ルターが「途上にあるキリスト者でなければキリスト者ではない」と云っているとおり、キリスト者こそ真のキリスト者になることを追い求め続けねばならない。
 ということは、「人の子」イエスの御国とは、悪人・罪人が悔い改めて神に立ち帰ることを呼びかけ待って下さる神の憐れみと忍耐の時であり、イエスの十字架と復活の御業の時であって、荒野の40年にも比すべき「父の国」への旅路の時なのである。
 ロマ書でパウロがいう「神の慈愛と峻厳」を思い起こしたい。人生の旅路のなかで、神の国の希望と忍耐を堅く保ち続ける「途上にあるキリスト者」でありたい。
3.2 畑の宝と高価な真珠(13:44~45)
 これらの譬えは、「持ち物をすっかり売り払って」というフレーズが強調されている。原始教会の人々は自分個人の財産をすっかり「売り払った」。(アナニア夫妻は一部を自分に残したために死に至った)。山上の説教でも「地上に富を積むな」と戒められている。また、それだけでなく家族をも、イエスのために捨てきる者でなければ、イエスにふさわしくないと云われた。
 つまり、生活の糧も地上的な絆も一切を賭して(決然と全力投入して)天国を獲得せよということである。
3.3 底引き網(13:46~50)
 底引き網を引き上げ、漁師が魚を選り分けるように、終末時に義人の中から悪人が選り分けられ、投げ捨てられる。
 だから、これらの譬えは、「義の実」を結ぶ「天国の子」となるよう、「一切を賭して」全力投入し天国を獲得せよ、と弟子たちを励まし警告しておられるのである。
3.4 結び、天国を学んだ学者(13:51~52)
 イエスは話を中断し、理解したかどうか弟子たちに尋ねられた。「はい、わかりました」と彼らは答えた。
 それを確認してイエスは、「天国を学んだ学者」は、新しい物(イエスの御業=福音)と古い物(旧約聖書)を必要に応じて倉から取り出す一家の主人のようだ、と譬えで語られた。
 なぜここに「律法学者」が出てくるのだろう。律法学者は、律法=旧約聖書を解釈し現実生活に適用する役目を果たした。キリスト教において、福音を解釈し現実生活に適用する役目を果たすのは、教会指導者達(神学者・説教者)である。彼らは、ただ新しいもの(イエスの福音)のみを語るだけでは足りない。それが「天地創造の時から隠されていたこと」(13:35)、つまり旧約聖書に預言されたことの実現成就であることを示さねばならないのである。
 キリスト教ユダヤ教から異端として排斥された。だから、キリスト教イスラエルの信仰の正統であることを示す必要がある。そうでなければ、イスラエルの神は約束だけして実行しない方になってしまうではないか。約束のメシア=キリスト・イエスは、現実に到来された!
 そのことをイスラエルだけでなく全世界に宣教するために、新しい物(イエスの御業=福音)と古い物(旧約聖書)を必要に応じて語らねばならない。
 これは、キリスト者一般ではなく、教会指導者たる弟子(使徒)に語られたことのように見える。だが一般信徒である私たちも、イエス・キリストを自分勝手に解釈するのではなく、新約聖書が告白し旧約聖書が証するとおりに見上げ信ずべきことを心に留めたい。