家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

畑の毒麦、芥子種とパン種の譬え

2018年8月12日
テキスト:マタイ伝13:24~23
讃美歌: 228&504 
 
            第3部 イエスが、イスラエルから退かれたこと(12:1~16:20)
                          B.譬えによる演説(13:1~53)
2.民衆への演説(13:3~35)
 前回は、有名な種蒔きの譬えを民衆に語られた。そして弟子たちに、譬えで語るのは民衆は見聞きしても悟ることがないからであり、イエスに教えられて天国の秘密を悟ることが許されている弟子たちは幸いであると云われたことを学んだ。今回も、民衆に語られた譬えの続きである。
2.2 畑の毒麦(13:24~30)
 毒麦とは麦の変性したもので、有毒菌類を含み、どうしても麦畑に一定の割合で生じてしまうそうである。だが、一般の麦より葉が狭いので区別できるから、見付け次第引き抜くのが普通である。また敵ならば、毒麦の種を蒔くなどという悠長なことはせず、畑に火をつけるなど直接攻撃するだろう。だからこの譬えは、通常の農作業の話ではない。刈り入れが終末時の隠喩であることは良く知られており、まず悪人が裁きを受け(焼き捨てられ)、最後に義人が神の国に受け入れられるとの話であることは民衆も理解できただろう。洗礼者ヨハネも箕で麦と殻を吹き分け、殻を火で焼き捨てる終末時の審判を語っていた。
 だから、発見次第抜き取るのではなく、収穫時まで毒麦を放置するの意味は、教会の中にも(信仰者自身の中にも)毒麦が混じり、あるいはそれに変化する者がいるということであろう。だから終末時の審判に備えて信仰者も絶えず悔い改めて「義の実」を結ぶ麦たれと警告する意味がある。
2.3 芥子種とパン種(13:31~33)
 黒芥子の種は1mmに満たない小ささであるが、その草本は2~3mにもなる。実(種)が餌になるので鳥が飛来して実をついばむ。木ではないが野菜の中で最大級のものである。
 パン種の譬えで驚くのは、混ぜ込む粉の分量である。3サットンは約4リットル、約150人分(大宴会用)のパンになるそうである。ここにパン種を「隠し込む」とある。
 つまり、両方の譬えは、目立たない始まりと驚異的な結末が語られている。
 マタイの教会はユダヤ人から排斥され、またシリアにおいても「小さい群れ」であった。一粒の芥子種、あるいは少々のパン種にも例えられよう。(現在の日本でもキリスト教はマイノリティである。)だが、芥子種を媒介にして鳥(異邦人)が飛来する最大の野菜、神の国が到来するのである。隠し込まれたパン種を媒介にして150人分の食料(天国の宴会を連想させる)となるパンが生まれるのである。芥子が成長し、練り粉が膨張するのは神の力であって目に見えない。だが、その開始は、極小の種また隠し込まれて目立たないパン種からである。
 神の国とは、神が人と共にある国である。だからこの目立たない始まりとは、イスラエルでのイエスの活動そのものと見ることもできる。洗礼者ヨハネですら、雲に乗り大いなる力をもって登場する審判者(人の子)を期待していた。もしそうであったなら、誰が義人として神の国に受け入れられるだろうか!だが、メシア・イエスは、罪人が悔い改め神に立ち帰るために、庶民の姿で登場し、病人を癒し、罪人・取税人と食を共にされた。ガリラヤの一隅で、神が人間と共にあり悔い改めに招く活動が現実に開始した。イエスは、罪人が立ち帰ることを喜ぶ神の憐れみそのものであり給う。そして十字架と復活によってイエスの御業が成就したことを、福音書を読む教会は知っている。いまや、イエスの御業は教会と共にある。「隠し込まれた」パン種のように、御言葉の真理は神の国をもたらす。そしてその展望によって、教会を慰め力づける。
2.4 結び(13:32~35) 
 こうして、イエスは民衆に譬えで語り終えられた。譬えによらずには何も語られなかった。それは、譬えによって「隠されていたこと=神の支配の到来」が言い表されるという、預言の成就であった。
 イエスが語られたのは洗礼者ヨハネ同様、終末時の接近と「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」ことである。だが、それを呼びかけるのは審き主たる人の子イエスご自身であり、それを聞き分けるのはイエスに従い解き明かしを受ける弟子だけである。イエスの御業を見聞きしても悟り得ない民衆には謎のままであった。
 以上、毒麦の譬えと芥子種・パン種の譬えは、すべて始まりと終末の間の忍耐と備えついて語っている。終わりの日に「義の実」を結ぶまで、罪人が悔い改めて神に立ち帰るまで、イエスは呼びかけ招いてくださっている。芥子種のように人に気付かれない目立たない姿で開始された「神の国=神が人と共にあること」は、空の鳥が巣を作るほどの豊かな姿でやがて顕わにされるであろう。これらの譬えから、悔い改めと希望の忍耐を聴き取る者でありたい。