家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

ベルゼブルと神の霊

2018年6月24日

テキスト:マタイ伝12:22~37

讃美歌:376&321
 
            第3部 イエスが、イスラエルから退かれたこと(12:1~16:20)
                      A.パリサイ人達との衝突(12:1~50)
 前回は、安息日の行動についての律法規定を巡り、イエスがそれら清浄規定や祭儀規定以上に「憐れみ」を優先させるべきとして、会堂で癒し奇跡を行われ、そのことがパリサイ人達を憤激させ、イエス殺害の企てがスタートしたことを学んだ。だが、イエスはあえて彼らと争おうとはせず、一歩退いて密かに民衆を癒され、言いふらさないよう命じられた。このようなイエスの姿を、福音書記者マタイはイザヤの預言した「神の僕」の実現として指し示すのであった。
 今回は、敵対するパリサイ人達へのイエスの反応が語られる。
2.パリサイ人達との最初の決着(12:22~50)
a.ベルゼブルと神の霊(12:22~37)
 そのころ、悪霊に憑かれ(支配され)目も見えず口もきけなくされた者がイエスのもとに連れてこられた。イエスは彼を癒し、目が見え口もきけるようになった。民衆は茫然として「もしかすると、イエスは(民を癒す王であるメシア)『ダビデの子』ではないか」といった。ところが、イエスに反感をおぼえるパリサイ人達は、イエスの奇跡は悪霊の頭ベルゼブルの力を借りて行っているんだと悪口をいった。
 これにイエスは反応された。①悪霊が悪霊を追い出すなら、悪霊同士の内部分裂・内戦状態ではないか。②また、イエスの癒しが悪霊の力によるなら、パリサイ人達の癒し(彼らの仲間も、エクソシストとして悪霊追放を行っていた)はそうでないとどうして云えるのか。
 そして、③もしイエスが神の霊によって悪霊を追い出しているとすれば、(そのイエスの行動において)神の国はここに実現しているのだ、と云われた。強い者(悪霊)に支配されていた者を解放するには、まず、支配していた強い者(悪霊)を打ち破り、縛り上げねばならない。そして初めて、支配されていた者達を解放できるのだ。
 上記①と②は、わかりやすい。その通りである。だが、③は信仰の決断を必要とする。悪霊追放をパリサイ人達の仲間も行っているのだから、癒し奇跡そのものはどっちにもとれるあいまいな徴でしかない。ここでは、民衆も「もしかしたら」と傍観者的・中立的立場に留まっている。
 イエスの悪霊追放に神の国の到来を見、「ダビデの子」なる王のもとに馳せ参じ、彼と共に留まるには信仰が必要である。戦乱において、王のもとに集結し、散らされた兵を彼のもとに集める者は、彼(王)に味方する者であり、そうせずに中立し、傍観する者は、敵対者、王の軍隊を蹴散らす者である。(実際、イエスの受難において、彼の群れ=弟子たちは「散らされた」)。この世を戦場として、神の国と、悪霊の支配が戦っているのである。
 その後に続く、31節~32節のパリサイ人達への厳しい審きの言葉は、そのままイエスの言葉として受け取っていいものか考えさせられる。山上の垂訓で「敵を愛し、迫害する者のために祈れと」命じられたことと矛盾するではないか。実際、迫害者サウロが、憐れみを受け使徒に召された。そして彼は、同胞ユダヤ人が救いに与るためには、自分がキリストから離され神から捨てられることさえ厭わないとまでいっている(ロマ9:3)。罪人に対するキリスト・イエスにおける神の愛が、それ下回るはずがあろうか。歴史において、ユダヤ人への迫害が、この箇所その他を根拠として正当化されてきたことを考えると、31節~32節は福音書記者マタイの偏見として括弧に入れておきたい。
 私たちが信仰者であることは、ただ恵みによる(エペソ2:5)のであり、神の自由な憐れみによるのであれば、迫害者達(パリサイ人、その他)も同じく憐れみを受け、信仰に導かれることを、祈り求めるほかありえない。次ぎに続く言葉を、他者ではなく自分自身(教会・キリスト者個人)への警告としたい。「木はその実によって判断される」。愛の実を結ばない、行いや言葉・考え方によって、私たち自身が、主に審かれることを心に留めたい。