家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

パリサイ人達との衝突

2018年6月10日

テキスト:マタイ伝12:1~21

讃美歌: 122&502
 
            第3部 イエスが、イスラエルから退かれたこと(12:1~16:20)
 前回まで、イエスが言葉と行為によってイスラエルを対象として最初の活動が語られた。それは、貧しい者等に感謝と喜びをもたらしたが、同時にイスラエル指導者層の反発と敵意をもよびおこした。イエスは対立を激化させ戦う途ではなく、むしろ一時的に身を引かれ、弟子たちを主な対象として語り始められる。弟子(教会)とイスラエルの分離が始まる。
                      A.パリサイ人達との衝突(12:1~50)
1.イエス安息日(12:1~21)
a.弟子たちが安息日に、空腹をおぼえる(12:1~8)
 ある安息日のことであった。安息日には、家族揃っていつもよりちょっと良い食事を摂るのが普通だというのに、イエスの弟子たちは飢えていた。そこで通りかかった畑から麦の穂を摘みとり、手で揉んで(脱穀し)食べ始めた。パリサイ人達はこれを見て、弟子たちの飢えという事態を何ら顧みることなく、単に安息日に禁じられた労働をしていると非難した。イエスは、ダビデの例(サムエル上21:1~7)と安息日に働く祭司達の例を挙げて反論され、なおかつホセア6:6を引用されて、日常生活に関する律法規定よりも「憐れみ」が優先することを強調された。(引用の旧約は読んでおこう)。「神殿よりも偉大なもの」とは、「憐れみが祭儀規定に優先する」という律法の精神と解釈する。
 ここまでは、ユダヤ教内の律法解釈論議のように見える。だが、ご自分の弟子たちをダビデの供の者になぞらえ(自分をダビデと同等にして!)、パリサイ人達が大切にしている神殿(祭儀規定等)よりも「憐れみ」が最優先だとするイエスの態度は、彼らにコチンとこさせた(反発を感じさせた)。しかも、山上の垂訓の時と同様、モーセを上回る権威を持つ者として(ナザレの大工ごときが)「安息日の主」と自称するとは、何事か!パリサイ人達は反発した。
b.安息日と癒し(12:9~14)
 ユダヤ人の会堂に着いて入られると、片手が動かない者(中風?)がいた。癒し手であるイエスを罠にかけようとして、安息日に癒しを行うのは律法で許されているのかとの問いがなされた。そこでイエスは、安息日でも家畜が穴に落ちたら救助することを例にあげ、まして家畜よりも価値ある人間を、救助するのは当然ではないかと云われた。そして、その場(会堂)で直ちに癒しを行われた。前のダビデにしても、家畜救助にしても、どちらも緊急事態の場合である。だが、直前の弟子たちの脱穀やこの会堂での癒しは、緊急とまではいえない。原則的に、律法規定よりも憐れみを優先させ、いかにも示威的・挑発的である。神殿破壊以前の、祭儀規定等を後生大事にする(回心以前のパウロのような)パリサイ人達は憤激した。彼らは出て行って、イエスについて相談し殺害を決議した。イエスを十字架刑とする過程がスタートする。
c.癒しを行われる神の子(12:15~21)
 イエスはそれ(パリサイ人達の決議)を知り、そこを立ち去られた。大勢の民衆(病人や不具者らを含む貧しい者)が彼を慕って後についてきた。彼らを癒し、しかもそれを言いふらさないよう戒められた。この秘密命令の意味はわからない。人知れずこのような貧しい者らを救助されたとて、名声を高めたりイスラエル全体になんらかの影響を及ぼさないではないか(効果がないのでは)?
 しかし、福音書記者マタイは、このイエスの姿に、イザヤの預言したあの「神の僕」(神の霊を授かり、異邦人に神の恵み深い判決を知らせ、争わず、叫ばず、大通りにその声を聞く者はない)の実現を見る。この時点ではまだイスラエルだけが対象であるが、やがて異邦人へも福音が伝えられる。彼(イエス)は、折れた葦や煙る灯心のような無価値な者を無視されず憐れみ給う。しかも、人間からの評価をなんら意に介せず、ひたすら父の御心を行われる権威ある神の御子としての姿を、福音書記者は指し示すのである。
 私たちもまた、神が無視されなかった折れた葦や煙る灯心のような無価値な「貧しい者、異邦人」である。そして、今こうして恵み深い神の判決(福音)を聞かされている。顧みられた「低き者」として、神に讃美と感謝を捧げたいと思う。