家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

イスラエルへの締めくくりの演説と、労する者への呼びかけ

2018年5月27日 

テキスト:マタイ伝11:2~30

讃美歌: 513&388
 
    第2部 イスラエルにおける、言葉と行為によるイエスの活動(4:23~11:30)
              D イスラエルに向けた締めくくりの演説(11:2~11:1)
 前回まで、弟子の召命、山上の説教、病人の癒し、悪霊追放、盲人の癒しや死人の蘇生、弟子の派遣と、主のイスラエルを対象とする最初の働きが語られてきた。今回は、その締めくくりとしてのイスラエル全体に向かっての演説である。

(1)イエスと洗礼者ヨハネ
a.ヨハネの問い
 ヨハネは、最初からイエスを「来るべき方=メシア」として啓示された者である。だが、投獄され死を待つばかりとなった彼は、イエスの活動の噂を聞いて、それを再度確認したく思った。彼は、火と聖霊によって洗礼を授ける厳しい審判者を期待していたのではないだろうか。ところが、この方は、イスラエルの宗教的指導者達ではなくの貧しく無学な庶民に向かい、厳しく弾劾するのではなく、病人を癒し、悪霊を追放し、罪人や取税人の友となっている。これが最後の審判を行うメシアなのか?彼は弟子を遣わして、イエスに尋ねさせた。
 イエスは直接には何もお答えにならない。ただ、ヨハネの弟子たちが直接見聞する事実を指し示す。「盲人は見え、足萎えは歩き、死人は生き返り、貧しい人は福音を聞かされている」。これらは、旧約聖書(イザヤやエリア)でメシア到来時の出来事としたことである。イエスの業をどう判断するかは、それを見聞きし体験した者自身に委ねられる。メシアと信じ受け入れるか、ベルゼブルと拒否するか。すなわち、奇跡や癒し等は、それを体験する者に、イエスを信ずるか否かの決断を強要し、その判断によって信仰、不信仰を切り分けて審判が実行するのである。啓示を受けたヨハネすら、この時点で再度、信仰への決断を問われる。人生や世界が移り変わる様々な時点で、絶えず信仰へと決断し続けなければならないのである。
 そして、ご自分に躓かない者は幸いであると云われた。
b.民衆への演説
 ヨハネの問いかけにより、イエスは、彼が神の国を予告する最後の預言者であり、ご自分の活動によって神の国が地に実現したことを思われた。そして、こう民衆に語られた。
 「ヨハネは女から生まれた者(人間)のうち最大の者だ。しかし、天国で最も小さい者でも、彼よりも偉大である」。なぜなら、天国で永遠の命に生まれ変わらせられた人間は、今までの古い人間以上の、新しい存在となるからである。ヨハネの偉大さは、神の御子到来という出来事の布告者・先駆けとして、旧約的人間が果たした最高の役割からくる。
 ヨハネが活動を開始した時点から今に至るまで、天国は力ずくで襲われていると語られた。解釈は難解であるが、ヨハネが活動を初めて以来、イエスの活動される現在(この現在はイエスが語られた時点を超えて今日の私たちの現在までを含む)に至るまで、神の国を阻止しようと反撃する動き(ヨハネの投獄、イエスへの敵意、教会への迫害等)が猛然と開始されたということではないだろうか。
 ヨハネの時までは預言であったことが、イエスの活動開始によって現実となっている。今、生起していることは預言ではなく実現なのだ。そうだ、ヨハネこそはメシアの先駆けである再来のエリヤなのだと、云われた。
 神の国の到来に気付こうとしない今の時代を、何に例えよう。子供が「笛を吹いたって踊ってくれない、葬式ごっこしても悲しんでくれない」と、逆手とりごっこしているようだ。ヨハネが断食や苦行をすれば「悪霊に取り憑かれている」といい、イエスが罪人・取税人と食をともにすれば「大食漢で大酒飲み、罪人・取税人の仲間」と罵る。つまり、いちいち逆にとって非難・反抗する。だが、イエスの行いが神のご意志=知恵にかなっていることは、その働き(盲人は見え、等)によって証明される、と云われた。

(2)イスラエルへの呼びかけ
a.イスラエルの町々についての悲嘆
 そして、ヨハネにもイエスにも真っ直ぐに耳を傾けようとはせず、反抗するイスラエルの町々、特に力ある奇跡を見ながら悔い改めようとはしなかった町々を非難された。
 「コラジン、ベトサイダ(これまでに出てきていない)よ、お前の所でなされた奇跡が、もし富におごったツロやシドンで行われたなら、彼らはとっくの昔に悔い改めたであろうに。終わりの日の裁きは、彼らの方がお前たちより軽い。
 カペナウム(イエスが居住された町、多くの奇跡がなされた)よ、お前の見た奇跡がソドムでなされたなら、(悔い改めて)ソドムは無事であったであろう。…」
 注意したいのは、これらイスラエルの町に異邦人の町が対比されていることである。イスラエルは背き、異邦人がイエスを受け入れる予告となっている。
 ヨハネへの答でもわかるように、奇跡そのものは信仰に直結しない。かえって、何か合理的原因があるはずだとか勘違いだとかいって奇跡と認めようとしなかったり、自分には関係ないと傍観したり、または悪霊の力によると悪く解釈する等、あらゆる形の不信仰が呼び起こされる。
 感謝と喜びは、癒された病人・不具者、排斥された罪人・取税人ら(凡人、庶民、卑賤な者)に起きた。だが、知的・宗教的エリートたちは躓いたのである。
b.疲れた者、重荷を負う者への呼びかけ
 イエスは、神の国が、知的・宗教的エリートたちではなく、かえってこれら貧しい者たちに示されたことを思い、神を讃美された。幼子のようなと云うのは、可愛らしいではなく、宗教的にまったく未熟で無学な、という意味である。
 神は、低い者を顧みる方であるであることを知るとき、讃美の声があがる。
 父なる神をまったく知る者は御子なる神のみであり、御子が、ご自分によって父なる神を啓示する者(人間)のみが、父と子なる神の愛を知ることができる。ただイエスによってのみ、神を知ることができる。
 御子は、へりくだって一人の人間となり、癒し、解放の業を行い、罪人の友となった。そして民に権力を揮わぬ、柔和な「ロバに乗る」王として、民に代わって十字架の死に至るまで神に服従され、人間の義を成就して下さった。彼は、羊のために命を捨てる羊飼いであり、王である。
 そして、労苦し重荷を負う者よ、私(イエス)のもとに来なさい、休ませてあげよう、…私の軛は負いやすく、私の荷は軽い、と呼びかけておられる。
 労苦や重荷は、内面的なものだけだけない。病や貧困、人生のあらゆる苦しみが含まれている。休みとは、イエスが勝ち取って下さった神の国の喜びと平安であり、イエスの軛とは、神への服従である。彼の荷は、イエスの戒め(山上の説教など)である。 
 イエスの跡に従って、神に服従しその戒めを守ることは、人間業ではなく、また迫害と困難への途ではないのか?そうではなく、かえって安息への途である。人生の幸・不幸の先に、天に蓄えた揺るぎない宝「神の国の喜び」が、主によってすでに確保されている。だから、人生のどのような時にも、その希望によって喜び、感謝しうるのである。
 イエスの軛は負いやすく、彼の荷は軽い。なぜなら、人間の義はすでに成し遂げられ、私たちはただ、自分に割り当てられた人生を主に捧げるのみだから。何よりも、聖霊が注いでくださる「神への愛」が力を与える。天路歴程で、悪魔アポルオンがクリスチャンに「彼(主)に仕える報酬は悪い。貧乏と迫害なんだからな」というと、クリスチャンは「報酬がなんだ!私は、彼を愛しているんだ」と叫んで猛然と打ちかかった。こうして、無数のキリスト者が彼に従った。
 私たちもまた、その群れに身を投じる者でありたい。