家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

弟子演説、派遣命令

2018年4月15日 

テキスト:マタイ伝9:36~10:15

讃美歌:225&211
 
 第2部 イスラエルにおける、言葉と行為によるイエスの活動(4:23~11:30)
                          C 弟子演説(9:36~11:1)
1.導入(9:36~10:5a)
 前回まで、イエスご自身の説教と奇跡が語られた。今回から、ご自分の代理として弟子たちをイスラエルに派遣し、ご自分の業を行わせたことが語られる。当時の一回限りの出来事であると同時に、教会(弟子たち)の宣教の任務について語られていることにも心したい。弟子たちを派遣された同じ方が、マタイの教会に対しても、私たち現在の教会に対しても語っておられるのである。
 a.使命と民の困窮(9:36~38)
 マルコ伝の五千人への給食(マルコ6:34)で群衆を憐れまれた記事を、マタイはより全般的な民の困窮へのイエスの憐れみととらえた。彼は、すべての町や村を巡り歩かれたが、なお漏らすことなく宣教するために、弟子たちを派遣してご自分の業を行わせた。弟子たちに言葉と業による宣教に派遣されたように、教会も自分自身に放置され困窮する世界に派遣されているのである。
 まず、弟子たちに祈りが命じられる。宣教の根本は祈りだからである。
 福音=神の国の到来を宣べ伝え、救いをもたらすために働き手をお送りくださるよう神に祈らねばならない。しかし収穫とは、畑の毒麦の譬えに用いられるように、最後の審判(終末時)=審きのイメージがある。なぜなら、福音は受け入れる者にとっては救いであるが、拒否する者にとっては審きとなるからである。
 宣教は、失われた羊(民)を牧者(神)のもとに集めることであり、同時に、拒む者に審きがなされることである。
 b.派遣された者たち(10:1~10:5a)
 そして十二弟子を呼び集め(選んで)、彼らに汚れた霊を支配するイエスご自身の力をお与えになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気と患いを癒すためである。「使徒」と呼ばず「弟子」と呼ぶことによって、彼らだけでなくキリスト者=教会もイエスご自身の権威と力を与えられていることを示している。
 派遣された「十二使徒」のリストが続く。ここでは「使徒」となっているが、実際にイエスが派遣した十二名を具体的に示すためである。ペテロの前に「第一人者として」という言葉が付されていて、これが教皇権との関係で論争の的となっているが、ここでは最初に召命を受けたと解釈する。イエスを裏切ったユダを最後におき、あとはほぼ召命を受けた順であり、相互の関係による二人一組になっている。
2.弟子たちのイスラエルへの派遣(10:5b~23)
 ①まず、派遣をイスラエルに限定された。イエスご自身はサマリヤ人や異邦人をとくに避けてはおられなかった。だがマタイ伝記者は、イスラエルへの約束がイスラエルの拒絶によって、異邦人に及ぶことになったことを強調するため、派遣の範囲を限定したと思われる。全世界への宣教命令は、復活後のことである。
 ②宣教すべき内容は、「神の国は近づいた」という洗礼者ヨハネと同じイエスご自身の言葉、および癒しや悪霊追放の業であり、実際にイエスが行ったとおりのことを、派遣する者たちに命じておられる。神の国が突入しつつあることを、言葉と癒しや奇跡の業によって告知することである。実際に原始教会も、言葉だけでなく癒しや奇跡の徴をもって福音を告知した。
 現在の教会は、言葉によってはともかく、癒しや奇跡によって神の支配を証しすることは稀である。言葉だけでなく、福音を告知する霊的な力をも祈り求めたい。
 ③また、それらの業から報酬を受けないこと、つまり職業としたり宗教的物乞いとなってはならず、無償の奉仕が命じられる。また、伝道旅行の費用の用意をせず、伝道された者の奉仕のみに頼れと云われた。すなわち、「貧しさ」と「無防備」によって、神にのみ頼ることを示す預言者的象徴行動が命じられたのである。実際的には様々なバリエーション(パウロは、天幕作りのアルバイトをしたなど)がありえる。だが、このような示威的「貧しさ」=十字架の徴が失われてはならない。地上で主が貧しく卑賤な姿で歩まれたように、主に従う者もその姿を取るべきである。それによって、神の力にのみ頼ること示さねばならない。教会にはつねに、アッシジのフランシスのように、示威的貧しさをもって、神の支配を告知する者たちがいる。
 ④目的地でまず情報を集め、ふさわしいと見られる家に赴いて祝福の挨拶をせよというのは、原始教会当時の放浪の伝道者達の経験が反映している。彼らを受け入れれば、その祝福はその家にくる、だが受け入れない場合は祝福は伝道者に戻って、拒絶した家とその町は裁かれる。立ち去るとき足の塵を払うという行動は、相手と縁を切るということである。つまり福音から断ち切る審きが執行される。最後の審判の日には、ソドムやゴモラのほうがその町よりも耐えやすいといわれる。
 自分自身に放置された、飼うもののない羊の群れのような世界に対し、教会は派遣されている。福音を受けた者は、特別に伝道者として召されなくとも、他者に福音を伝えるべきである。少なくとも、家族や愛する者、知り合いの救いのために、絶えず祈る者でありたい。
 そして、福音が貧しく無力な姿で伝えられることを恥じてはならない。それは「すべて信じる者に救いを得させる神の力」(ロマ1:16)であり、私たちのこのささやかな集会も、自分の力ではなくこの力によって支えられ守られてきたことに深く感謝したい