家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

二人の盲人の癒し、唖の悪霊からの解放

2018年3月18日

テキスト:マタイ伝9:27~35

讃美歌:271&260
 
    第2部 イスラエルにおける、言葉と行為によるイエスの活動(4:23~11:30)
              B イスラエルにおけるイエスの奇跡(8:1~9:35章)
4.結びのイエスの奇跡(9:18~34)
 前回は、イエスが行われた奇跡の結びとして、①長血の女の癒し、②指導者(長)の娘の蘇生、が語られた。今回はその続きである。
4.2 二人の盲人の癒しと唖(おし)の癒し(9:27~34)
(1)イエスが娘を生き返らせた長(リーダー)の家から戻られる途中のことであった。二人の盲人が「ダビデの子よ、憐れんでください」と叫びながらついてきた。
 「ダビデの子」は、イスラエルの王的メシアを意味する称号である。当時、ローマの支配に苦しんでいたイスラエルで、異民族支配からの政治的解放をもたらすメシアが待望され、暴動や一揆の合い言葉となるほどであった。ところが、この盲人らは、自分たちの目が見えないこと(身体的であると同時に、暗黒の世にさまよっている状況)からの解放を、「ダビデの子」メシアに期待した。
 「憐れんでください」は、勿論「キリエ」であって、絶体絶命の悲惨な状況からの叫びである。ベートーベンのミサ曲の最後の「キリエ」を思い浮かべよう。より上品にわかりやすくいえば、熊谷直実が息子のような平家の若武者を斬り殺すときにあげた慟哭を思い浮かべてみよう。
 彼らは、直ちに癒されたのではない。叫びながらしつっこくイエス一行の後について行って、ついに家(イエスの自宅?)の中まで入り込んでしまった。イエスは、そこで彼らに信仰の確認をする。「私にできると信じるのか?」「はい、主よ」。イエスは手を伸ばし、彼らの目に触れ、「お前達の信じるとおりになるように」と言われた。
 二人は、目が見えるようになった。
 イエスが「ダビデの子」(イスラエルの王的メシア)であることは、当時の人々が期待した政治的解放ではなく、より深い困窮(目が見えないこと、病、暗黒の世にさまよっていること)からの解放をもたらすことによって示された。また、イエスの行われた奇跡は、自動的に引き起こされるのではなく、救いの受け手(病人等)とイエスの関係(信仰)において起きることを、奇跡物語りは語っている。
 私たちは、奇跡をどう受け取るべきなのか。それが、次ぎに語られる物語である。
(2)悪霊につかれ口のきけない者が連れてこられた。イエスによってその状態から解放され、口がきけるようになった。この事態に対する反応が二種類示される。①一般の人々はただ驚き、びっくりするだけである。自分が癒された訳ではないから、感謝もない。ただ不思議がるだけである。②その理由を検討する場合、不可解なことはおおかた悪く考える。それが、パリサイ派の人々であった。彼らは、イエスは悪霊の頭の力を借りて悪霊を追い出したと解釈した。奇跡から、信仰が生まれるのではない。信仰が、奇跡をもたらす。神が為したもうと信じる力が信仰なのである。
 イエスは、民に権力を揮うことではなく、民の困窮を憐れみ救い給うことによって、真のイスラエルの王的メシアであることを示された。そして、その憐れみはイスラエルを超えて異邦人(百卒長の息子等)にまで及ぶことを示された。
 癒された者たちはイエスを信じ、彼を主と信じた者であったことに注目したい。奇跡はイエスとの関係(信仰)において起きる。私たちは、奇跡を①の人々のように他人事と考えてはならない。自分たちの生の困窮、そして死の不安や恐怖といった「深き淵」から、ただキリスト・イエスによってのみ助け出されることを堅く信じ、彼を自分の主と信じて初めて、これら奇跡が指し示す救いを自分の体験とすることができる。イエスは、その羊(民)のために命を捨てる羊飼い(王)なのである。
4.3 結び(9:35)
 このようにイエスは、イスラエルの町や村を残らず回って、福音を宣べ伝え、あらゆる病気や患いを癒し、旧約聖書の預言したメシア到来の出来事の成就を公にされた。