家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

イスラエルへの裁きと、神殿立ち去り

 

2019年8月11日

テキスト:マタイ伝23:34~24:2

讃美歌:194&249

                  第5部 エルサレムにおけるイエス(21:1~25:46)
                    A.イエスと敵対者たちとの対決(21:1~24:2)

4.律法学者とパリサイ人達に対する災いなるかなの演説(21:1~24:2)
 エルサレム入城から、宮浄め、敵対者達との論争、そして前回取り上げた「律法学者・パリサイ人」に対する「災いなるかな」の呼びかけに至るまで、イエスはこの都が待ち望んできたイスラエルの「王的メシア」として振舞ってこられた。本来なら、歓呼して喜び迎えるべきお方を、この都の住民は警戒の叫びで迎え、祈りの場であるべき神殿は世俗的売り買いの場と化していた。そして、宗教的指導者たちは、イエスを罠にかける意図をもって問いかけてきた。イエスは、イスラエルを裁く審判者として、叛くイスラエルに「災いなるかな」と呼びかけ、審判の言葉を告げようとしておられる。
 では、視点を変えて、エルサレムの支配者層がイエスをどのように見ていたのか想像してみよう。エルサレムに全国からの神殿税が集約され、祭司長ら宗教的貴族階級はそれを意のままにできた。また神殿での商売からの収益もはいる。ローマ支配下にあるといっても、民衆の反発を背景に総督に皇帝に訴えるなどの圧力をかけることも可能だった。従って、ローマに大規模な反乱など起こさず、神殿を中心とする現在の宗教的支配体制を維持したいのが本音ではなかったろうか。いわば世俗的「政治的配慮」が、民衆に熱狂的に支持される「メシア」イエスへの警戒と敵意になった。
 だが結局、異邦人支配に対する民衆の不満は抑えきれずに爆発し、ユダヤ戦争=エルサレム陥落となり、民族国家としてのイスラエルは消滅した。そして今度は、神殿祭儀なしで、律法のみを中心にイスラエル信仰を維持しようとする勢力(律法学者・パリサイ人らを代表とする)が、台頭した。ユダヤキリスト者シナゴーグから追い出し、分離させたのは彼ら(学者・パリサイ人)であった。
 イエスを十字架につけたのは、ローマ人とエルサレム支配層だった。だが、ユダヤキリスト者を迫害したのは「学者・パリサイ人ら」であった。マタイ伝が執筆された当時、シナゴーグから迫害を受け、イスラエル同胞から切り離されたユダヤキリスト者からみて、主の審判が下されるべきは、現在イエス・キリストを受け入れないイスラエルであった。
 今回取り上げる審判の言葉は、こうした入り組んだ複雑な背景から読まれるべきである。
4.3 イスラエルに対する裁き(23:34~39)
 前回取り上げた23:32で「先祖が始めた悪事の仕上げをせよ」とあるように、もはやエルサレムの敵対者達には悔い改めと立ち返りが期待されていない。福音を宣教するユダヤキリスト者預言者・知者・学者への迫害は、「先祖が始めた悪事の仕上げ」である。先祖伝来のイスラエルの悪事の報いは、イエス当時の時代の人々に降りかかった。それが歴史的「エルサレム陥落」であると前提されている。
 「エルサレムエルサレム、…わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と嘆いておられるのは、先在の神の子として預言者が迫害された事実を嘆くだけでなく、高挙された主が派遣した使徒ユダヤキリスト者達もが迫害されたことも合わせて嘆いておられるのである。その結果、イスラエルは見捨てられ、神殿は荒れ果ててしまう(しまった)。もはや、主が審判者として再臨される日まで、主に遭うことはできない。つまり、イスラエルにとってインマヌエル(神われらと共にいます)は失われてしまったのだ。審判のために再臨される主に対して「主の名によって来られる方に祝福あれ」と言わざるを得ない。だがそれは、イスラエルに対する(エルサレム陥落や神殿崩壊等の)審判を正当と認めるためだけである。
4.4 神殿を立ち去る。(24:1~2)
 バビロン捕囚時、預言者エゼキエルは、神の霊がエルサレム神殿を捨て、捕囚の民の所に向かうという幻をみた。それと似た事態がここに生起している。神の臨在であるインマヌエル=イエスが、神殿を見捨てて立ち去られる。弟子たちが、神殿の壮麗さを指摘し感嘆しても、「これらの石のどれ一つ崩されないで残ることはない」と予言される。実際、神殿はローマ軍によって破壊され尽くしたことを読者は知っている。国家として、あるいは宗教共同体としてのイスラエルから、神の臨在そのものであるお方(インマヌエル)が立ち去られた。歴史的イスラエルは見捨てられた。もはや、立ち帰りの希望は失われた。
 では、マタイ伝はユダヤ人が神に捨てられたといっているのだろうか?ヨーロッパでは、そのように解釈され、ユダヤ人は神から呪われた民とされた。しかし、これを書いたのは(律法を一点一画まで守ろうとする)ユダヤ人=キリスト者マタイであり、上記のとおりエゼキエルほかの預言書・エレミア哀歌等のイスラエル神信仰の伝統に立つ者である。捕囚の民は「裁きを受け捨てられた民」であった。哀歌には「口を塵につけよ=まったく絶望せよ」とある。神の霊(シェキーナ)は、自分に対する神の裁きを正当と認め絶望した民に向かわれたのである。また、ホセアは「私の民でない者(ロアンミ)」を「わが民」とする神の憐みを予言している。マタイは、このような伝統から主の裁きを語っているのである。
 福音は、一民族を超越し全世界に宣教され、全世界(あらゆる民族)から新しいイスラエルが招集されようとしている。神の選民(イスラエル)は捨てられるのではなく、一民族から全世界規模に拡大成長するのだ。血筋によらず肉によらず、イエスを信じる者が「アブラハムの子孫」として神の民イスラエルに受け入れられる。それは、肉による「アブラハムの子孫」ユダヤ人も排除されないことを意味する。実物の神の民イスラエルが出現した以上、一民族としてのイスラエルは、ヘブル書が語るように予型(模型)として見捨てられる。だが、捨てられたかつての選民イスラエルユダヤ民族も、異民族とまったく同様に、「私の民でない者(ロアンミ)」を「わが民」とする神の憐み(イエスの贖いと招き)によって新しいイスラエルに加えられるのである。事実、福音の迫害者パリサイ人サウロは使徒に召され、ユダヤ人マタイは福音書を著わし、ペテロ、ステパノ、その他多くのユダヤキリスト者たちによって、福音が全世界に宣べ伝えられ、神を知らなかった民族から、キリスト者が生まれてきた。私達自身も、日本人でありつつ今やそれを超えた世界規模の民「真のイスラエル」に受け入れられ、国籍を天に持つ者とされたのである。
 エゼキエルが見た神のシェキーナは、神殿を出て東(神に見捨てられた方角)に向かった。イエスの裁きの言葉と神殿立ち去りを、ただイスラエルに対する審判と見捨てと見るだけでなく、神なき民から真のイスラエルを呼び出すためとみるべきである。見捨てられた者を憐れみ給う神は、やがて捨てられたかつての選民=ユダヤ人をも憐れみ給うであろう。ロマ書に「高ぶることなく、むしろ恐れよ」(11:20)とある。キリスト者は恵みに思い上がることなく、捨てられた者=罪人を顧み給う神の憐れみに深く感謝すべきである。