家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

ペテロの否認

2020年1月26日

テキスト:マタイ伝26:69~27:2

讃美歌:243&249

                    第6部 受難とイースター(26:1~28:20)

 前回は、祭司長らの審判でのイエスの言葉「しかし、わたしは言っておく。今から後、あなた方は人の子が『力(神)』の右に座し、天の雲に乗って来るのをみるだろう」を取り上げた。彼らはそれを神聖冒瀆として、イエスを死に値するとし暴行・虐待を加えた。イエスの不屈のお姿が描写されていた。
 今回は祭司長らの審判と結びついたペテロの否認を取り上げる。
4. 大祭司の宮殿で(26:57~27:10)
4.4 ペテロの否認(26:69~75)
 イエスの審判の成り行きを気遣って、ペテロは中庭に座っていた。すると、ある女奴隷がみんなのいる前で、「あんたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と云った。ペテロは①「何のことをいっとるやら」ととぼけた。しかし不安になり外に出ようと門の方に向かうと、ほかの女奴隷が彼に目をとめ、その場にいた人々に「この人は、ナザレのイエスと一緒にいたよ!」といった。ペテロは再び②「そんな人は知らない」と打ち消したが、その場にいた連中は彼に近寄ってきて「確かにあんたは彼の仲間だ.言葉の訛りで分かる」と云った。ペテロは(イエスを)呪いさえして③「そんな人とは知らない!」と誓い始めた。その時、一番鶏が鳴いた(夜中の3時頃?)。ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うであろう」とのイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。
 26:31~35、最後の晩餐の席で、イエスは弟子達全員がご自分に躓くと語られた。ペテロは自分だけは「決して躓きません」と云い、イエスは「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度私を知らないと言うだろう」といわれた。それに対し「たとえご一緒に死ぬことになっても、あなたを知らないなど決して申しません」とペテロは言ったのだ。その舌の根も乾かぬその夜の内に、この有様である。ペテロと共に私達も泣かずにいられない。
 イエスは自分を殺害しようという審判者の前で、誓うこともなく神の子であることを認め、不利になることを恐れず堂々と彼らに対する裁きの言葉を述べられた。
 だが、ペテロは自分の命が狙われているわけではなかった。そして、たかが下男・下女、審問の場に入ることも許されない身分の低い連中を恐れて、イエスを呪い、イエスが禁止された誓いまでして、イエスを知らない(嘘!)としたのである。彼は、イエスのために職業も家族も一切を捨て、イエスに信従してきたと自負していた。だが、彼を招き導く給うイエスなしに、自分が何者かを、ペテロは心底思い知らされたのである。弟子たちの筆頭、イエスをキリストと告白した自分が、こんなにも情けなくイエスを裏切ったのである!
 和泉式部は「とことはにあはれあはれはつくすとも心にかなふものかいのちは」と歌った。極限まで真情を尽くしたところで、いつまでもそこに留まっておれず移り変わってしまう人間の心を嘆いたものである。恋愛遍歴を繰り返してきた経験から出たものであろう。恋愛よりもっと真剣にペテロは信じ従ってきたはずだ。それが、たかが婢(はしため)連中にイエスの仲間と言われて、この有様である。泣き崩れたのも、門から走り出てその場を逃れてからであった。ペテロの姿は、私達の姿である。
 彼を本心に立ち返らせたのは、鶏の声ではない。イエスの言葉である。イエスは彼の躓きを見抜いておられた!それなのにゲッセマネの不安と恐れの中でもペテロを愛し信頼し、ご自分のために祈るように命じて下さった。
 ルカ伝では、イエスの眼差しがペテロを本心に立ち戻したとなっている。実際はイエスは屋内で審問と虐待を受けておられて、屋外のペテロは見ることは出来なかったであろう。だが、「イエスが彼を立ち返らせた」ことは本当であり、事実である。裏切り、躓く弟子たちを守り抜き、立ち帰らすのは主である。
 ペテロの慟哭や痛恨は当然であり、功績と評価出来るものではない。だが、彼は同じくあるいはそれ以上に痛恨したユダのように自殺や絶望にまで至らなかった。何故だろうか。イエスが弟子の躓きを予告された時、同時に、蘇って弟子たちとガリラヤで再会すると約束された。そのイエスの言葉が、彼を支えたからではないだろうか。
 自分の裏切りをすでに予知しておられたイエスが、それを超えた時点でなお、自分達を弟子として再会の予告をされた。それがペテロを支えた。
 マタイ受難曲では、ペテロの否認の場面の後に次のコラールが歌われる。
「たとえわれ汝より離れ出ずるとも、
 ふたたびみもとに立ち返らん
 (省略)
 われはわが咎を否まず
 されど汝の恵みと愛は
 絶えずわがうちに宿りおる罪に勝りて
 はるかに大いなり」
 私達にとって、何より銘記すべきこと、そしてマタイも伝えたいことはこれであろう。イエスにおける神の人間に対する愛は、人間のどんな罪よりも大きくそれに打ち勝ち給うたのである。だから、自分で自分や他人を裁くのではなく、贖い主であり審判者であるイエスの、正しい裁きに服すべきである。神の裁きは正しく、慈しみと正義に満ちた真実の裁きである。人間の一切の罪と汚れを、神はイエスにおいて裁き、彼の十字架と死によって贖われた。万物を更新させる、神の驚くべき愛と主権の行使である。だから、イエスを十字架に導いた祭司長らも、ユダすらも、主権者なる神の裁きと愛(贖い)の中の存在であることを認めなければならない。私達は、自分の恐るべき罪と汚れの中においても、神を「我が神」とし、その真実の裁きを受け入れるべきである。
 ペテロはイエスによって裁かれ、かつ憐れみをうけたのであった。
4.5 死の決議(27:1~2)
 そうこうするうちに、夜が明けた。大審院は正式にイエスを死に値すると議決した。彼らは、最初からイエスを十字架刑とするつもりであったから、反乱罪(彼らが有罪とした神聖冒瀆罪ではなく)でローマに引き渡すべく、イエスを縛り上げ、ローマ総督ピラトの元に連行した。
 そして総督に告訴し、ピラトの審問の場面が続くはずである。ところがその前に、時間的には続かないはずの、ユダと彼が投げ込んだ金をもとに祭司長らが土地を購入したエピソードが語られる。次回は、それを取り上げる。