家庭礼拝記録

家庭礼拝の奨励、その他の記録

最初の弁明Ⅴ 聖霊の保証

2024年3月24日

テキスト:Ⅱコリント5:5~10

讃美歌:339&338

                                 コリント人への第二の手紙
                                      A.最初の弁明
                                            
 前回、パウロは苦難に押し出されるように信仰を語っている、と彼の宣教を説明した。宣教の苦難は、宣教の対象者に命をもたらす信仰を起こさせる。宣教の内容は「主イエスを復活させた神が、イエスと共に(「わたしたち」&「あなたがた」を一緒に)復活させ、御前に立たせてくださる」ということ、つまり復活信仰である。

 そして「外なる人」は衰え滅びても、聖霊によって新しく生まれた「内なる人」は滅びずに日々新しくされると語った。「外なる人」は生まれながらの肉体と霊魂であるが、「内なる人」はまだ霊魂だけである。これは、信仰者の中に二種類の人格(霊魂)があると言うのではない。生まれながらの独立した自己(霊魂)が、イエスの死に呑み込まれて失われ、「わたしたち」の為に永遠の命に生きておられる主に従属する自己として新生したものと解釈する。(「わたしたち」と複数形にしたのは、そのような霊魂は決して単独の存在として自分を意識せず、主が贖って下さった人間達の一員と自己認識するからであろう)。従って、自然的自我を後にして、キリストに属する自我へと向かって行く信仰者の霊魂の変容を表現したものであろう。
 過ぎ去るべき「見える」現世ではなく、いつまでも存続する「見えない」永遠の世界を目指して生きようではないか、と勧めた。
 そして、現在呻き求めているのは、身体から解放された裸の霊魂となることではなく、復活の身体である「天にある永遠の住みか」を「上に着」ることである。つまり、生死に関わりなく、死すべき心身が「(永遠の)命に飲み込まれてしまう」事を望んでいる、と語った。
 ここまで読んでくると、パウロは、単に律法遵守の「ユダヤ化主義」を論駁しているのではなく、後代のグノーシス主義のように、肉体の牢獄を脱し霊魂だけで救済に与るという考え方と闘っているように見える。外から来た「論敵」が何者かは不明だが、パウロは(救済される霊魂は)「裸のままではない」と断言し、明確に身体の復活信仰を表明した。引き続き、パウロの語る事を読んでいきたい。
(11)聖霊の保証(5:5~10)
 「5わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。
 6それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。 7目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。 8わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。 9だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。 10なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
  5節。「このように」死人からの復活にふさわしい者とされたのは、自分の努力や精進ではなく、神からの一方的な恩寵である。つまり、神が滅ぶべき人間を自由な恩寵によって召し、キリストにあって永遠の命に「ふさわしい者」とした、という事である。そして、将来復活に与る「保証《アラボーン》=手付金」として、私達信仰者に聖霊(“”付の霊は聖霊)を付与して下さった。(コリント教会の人々は、異言や預言など聖霊の賜物を豊かに受けていたのだから、これはよく胸に落ちる説明であったろう)。
 6節は、すこし言葉の順序を入れ替え、次のように整理して読むべきだろう。
 「それで(5節を受けて、保証としての聖霊を受けたから)、いつも心強くはあるが、(地上で、肉の)体を住みかとしている限り(天にいます、霊の身体の)主と離れていることも知っています」。
 パウロがこう云うのは、前の手紙15章で論駁した復活否定論者を意識しているのであろう。彼らは、ギリシャ思想に影響され、身体的復活を救済とは考えなかった。イエスの「復活」を、霊魂を霊界に導く天使のような存在への転生と解釈し、人間は霊魂だけで救済に与ると考えた。だが、神が実現されたのは、イエスの十字架と復活という驚くべき救いである。それは、<霊と身体を備えた人間存在が、神との正しい関係に入る>ためである、だから、「初穂」として栄光の身体に復活されたキリストを見上げ、その目標を見失ってはならないのである。
 7・8節も、合体整理して、次のように読むべきであろう。
 「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるから、(地上にある現在においても)わたしたちは心強い。そして、(現在の状況を超えて)体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。
 ユダヤ教では、死んで「体を離れ」た霊魂は、裸で黄泉に行くとされた(イザヤ38:18、詩139::8、ヨブ19:25/26等参照)。だが後代になると、生前神に喜ばれた者の霊魂は、ただの黄泉ではなく「アブラハムの懐」or「パラダイス」と呼ばれる処に導かれると信じられるようになった。ルカ伝は、十字架上のイエスが隣で十字架につけられた罪人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」(23:43)と語ったと伝えている。死後パラダイスにいる霊魂は、まだ身体なしであっても<主と共に>いる。これは、慰め深い死後の見通しではないだろうか。信仰者の霊魂は、(復活を待つ事なく)死後直ちにパラダイスで、主にまみえ、死別した愛する者と再会し、代々の聖徒達と共に神を讃美し、地上のエクレシアの為に祈りつつ、終末を待つ。
 パウロは、「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるから」地上でもいつも心強い。だが(6節で述べたように肉体にある限り「主から離れている」のだから)、それより、(死んで)体を離れ、(パラダイスで)「主のもとに住むことをむしろ望んで」いる。それは、復活否定論者のように肉体から脱出したいからではない。「主の傍らにいたい」からである。
 9節。とにかく、死んでパラダイスにいるにせよ、生きて地上で活動するにせよ、生死どちらであっても、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」。これが、パウロの願いである。彼はロマ8章で「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」といい、続いて「死も、命も、 …わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」といっている。つまり主との結びつきは、生死を超えるのである。
 10節は、霊魂と身体の関係について重要なことを言っている。人格の本質は霊魂にあるから、肉体という「体を住みかとしていたときに行ったこと」について、霊魂が責任を負わねばならない。「主に喜ばれる」かどうか判断される基準は、生前の(身体を用いた)行動である。復活否定論者は、肉体で行った事は霊魂と無関係として放縦な生活をしたり、逆に極端な禁欲をしたりしたようである。だが、霊においていくら法悦を味わったとしても、「主に喜ばれる」ような行い(実生活)をしなくてはだめである。
 しかし「主に喜ばれる」事が何かは、真剣に神の言葉から聴き取らねばならない。人間は、それを勝手に自分の理想や希望に置き換えがちである。人間の掲げる理想や目標(熱心党の夢みたイスラエル神政帝国とか、神聖ローマ帝国とか、法王を頂点とするキリスト教社会とか、民主主義や社会主義体制など、また個人単位で恋愛や家族関係の理想など)。だがそれらは、達成できたと見える瞬間から、失望と崩壊がはじまるのである。「すべての人は、あてにならない」。
 また、律法のような不動の金科玉条でもない。そして、これぞ神の御意志と思い込んで挫折や失敗に終わった時の苦しみは大きい。だが、人間の思いが破れたそうした時に、神の御旨が良く示されるのである。詩篇にはそのような体験から神讃美に至った詩がたくさんある。聖霊は生きて自由に働き、「主に喜ばれる」事が何かを信仰者に示して下さる。主に信頼して前に進んで行きたい。
 パウロは、福音という無上の宝を収めた「土の器=弱い人間」として、「絶えず死につきまとわれ」つつ宣教してきた。弱さと死の危険の中で、彼を支え、力強く働かせて下さる「聖霊」の臨在を強く意識したであろう。地上で聖霊としてかくも身近にいますキリストは、必ずや永遠の世界においても一緒にいて下さるとの確信が、将来の復活への希望となっている。
 彼はここで語ったと同様の事を、ロマ書で「“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 24わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 25わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(8:23/25)と、述べている。現在、聖霊を受けている事が将来の復活への確信となり、現在の苦難を乗り越えて希望に生きる力となる。
 私達は、使徒パウロのような苦難も霊的体験もしてはいない。だが、「主は一つ、御霊も一つ、教会(エクレシア)も一つ」である。パウロはエクレシア(信仰共同体)の一員として聖霊の力強い導きを体験し証言した。彼の体験は「わたしたち」エクレシアの体験である。使徒の証言を信じ、彼に「倣って」信仰の道を進んでいきたい。